平成17年6月1日(水曜日)

最近、日にちが一日ズレ始めてきた
だんだん前日のことを書くようになってしまった

ここは花園、銀杏並木の木々の緑がきれいな場所だ

悠久町、自宅裏のお宅はきれいに取り壊され整地されていた

ほんと、きれいになくなっている

写真左のお宅はやはり全壊のお宅、右側のお宅が取り壊されて整地されている

これは昨年11月21日に掲載した写真、この右のお宅が取り壊されている

こちらは新築となった隣のお宅
たまたま隣の方とお会いしたので立ち話をしていたら
いままで二階建てで部屋数も多かったが、今度は平屋にしたら部屋数が少なくなって荷物の整理が大変だという
「捨てればいいのだろうけれど、結局捨てられなくて荷物が片づかない」と話しておいでだった

歴史と伝統も捨てられる

たしかに、想い出だけではなく、その家の伝統や歴史を伝えるものがどんどん捨てられてしまう
今の生活に必要なモノだけ残して、今の生活に直接必要でない昔のモノなど保管場所が無くなってしまうから
どんどんと捨てられてしまう
まるで、いまの会社のようだ

生き残るためにリストラ、リストラと言ってベテランを切り捨ててしまい
機械と未熟な若い連中だけ
ベテランの熟練した伝統技術など伝える人がいなくなり
パターン化したチープな技術しか残らなくなって
結局、人件費の安い中国などに仕事が取られてつぶれてしまう

そう思うと、ベテランの「匠の技」をもっと大事にしておけば良かった
などと今更言ってももう遅い
歴史と伝統は無くなってから初めて大切さを知る

なにやら同じことが起きてしまっているのだろうかと思った

悠久山の蒼柴神社裏門の入り口が見える

我が家の庭のツツジ

もう、盛りを過ぎたようだ

後生のためになること

これは、我が家の昔の看板と聞く
屋号が高久、料理屋だ昭和初期まで長岡本町で料理屋を経営していた
我が家の先祖が江戸時代後期に「料理活用」という料理の本を出版した
その本が今でも長岡の互尊文庫に保管されているという
私で15代目くらいだろうと、家に残された位牌を調べて見当した
私の3代前の方は明治期に、長岡の三業組合の責任者を務めていたようだ

歴史と伝統は自分一人ではつくれない
先祖があって、先祖が頑張ってくれたおかげで
今がある
そうなると、今の自分だけのために今を過ごしていいのだろうかと考える
これからの後生のためになることを考えて今を生きてゆかねばならないのではと考える

悠久山の泉水池に寄ってみた、驚いた
工事用の重機が置いてあった、なにやら工事用の資材が置いてあった
道路工事を開始するのだろうかと気になった

泉水池の、池の水が抜かれていた

重機で池の中に土嚢を積んでいた

池に張り出している場所の石灯籠が崩れたままになっていた

石灯籠の足元を見ると地割れが起きて、その中を木の根っこが走っていた

地割れの中に石灯籠のパーツがはまっていた

石彫の道

石灯籠の台座に「贈 長岡市村松町 石匠 大橋平治」と書かれていた
そう言えば、村松町というか東山の南蛮山の途中に「石匠の道」だっただろうか、確かそんな名称の着いた道があり
そこにいろいろ石の彫刻があったように記憶している
久しく行ってないからどうなっているのかわからない
インターネットで調べたら書いてありましたよ、「石匠の道」ではなく「石彫の道」でした、ハイ

「 長岡市南蛮山の「石彫の道」は昭和53年から設置になるが、52年からの積年制作により、彫刻家有志の意志で設置し出したものである。代表作に元井達夫の<星との対話>や戸張公晴の<南蛮の今昔>等がある。」(「日本野外彫刻史試論  −日本彫刻史の新しい可能性−」(7.自発的野外彫刻の歴史)高岡第一高等学校 松尾豊著)より

なお、この同じ小論文の中に長岡の平和の象についての記述があった
「 新潟県長岡市の明治公園にも「教え子を再び戦場へ送るな」のスローガンで結集した新潟県教職員組合の寄贈設置で<平和像>がある。昭和26年の設置で広井吉之助の作である。」(「日本野外彫刻史試論  −日本彫刻史の新しい可能性−」(3.象徴的野外彫刻の歴史)高岡第一高等学校 松尾豊著)より
平成17年5月4日掲載の平和の象、なお、記述で明治公園にあると書かれているが
たしかこれは最初、長岡駅前にあって、それから明治公園に移って、いまようやく平和の森公園に置かれている

 

さてさて、悠久山の泉水池の重機は何をやっているのだろうかと気になったが、よくわからない、どこかに表示板でもあるのかと思ったが
近くを見てもそれらしいモノは目に入らなかった

鉄板を敷いて土嚢、を池の中に一つずつ置いているようだ

池の周りの道は静かで緑がきれいだ

池の周りを歩いていたら、サギだろうか、パッと目に入った

回りの木々はたっぷりと緑の葉をあふれさせている

そんな景色の中にポツンといる、左の写真の左上に、木の枝に止まっている白い点がサギだ

水がほとんどなくなった池の中にもサギがいた、これは少し肌がネズミ色だ、今年生まれたばかりだろうか

静かに歩いて近づいてゆく

なにか池の中に小魚でもいるのだろうか

人が一人歩いてきたら羽を広げて舞い上がっていった
よく見たら、他にも一羽目に入った、静かな環境になったことで、車が入ってこれなくなったことで野鳥にとっては住みやすくなったのだろうか
昔、自然の野鳥に詳しい社長から聞いたことがある
サギは環境のいい場所でなければ住めない鳥だという
そんなサギが住む環境に住んでいることは幸せだと思わなければならないと

そう、サギは悠久山に住み着いている

トキと山古志

最近、新聞を見ると、佐渡のトキが人工繁殖が成功してだいぶ増えてきたという
そうすると、今度は何かの病気に掛かって集団で伝染することの危険性があるという
そうしないために、違う場所に分けて育てる必要がありそうだ

そこで、山古志の自然の中にトキを離してはどうかという議論が出てきた
これは良いことだと思った

そこで、こんど長岡市が来年寺泊と合併することになっているが
そうなると、寺泊から佐渡の赤泊まで連絡船が行き来しているのだから
長岡と佐渡は海を挟んでお隣同士と言うことになる

そんなことなどを含めた意味だろうか
佐渡の市長が長岡市長と先日会ったらしい
そんなことが新聞の記事になっていた

メモリアルの保存

さてさて、やはり気になるのはこの重機だ
地震の記録をキチンと保存してゆくと言うことは大切なことなのだが
何でもかんでも完全に保存という意味で言っているのではなく
メモリアルとしての、忘れ去って気がゆるんだ頃また大きな被害が出てしまうことを避ける意味で
今回の地震を教訓とするために、教訓とする意味で、教訓とするための効果的な手法という意味で

メモリアルをキチンと保存してゆくことが大切ではないかと私は考えている

その意味で、保存そのものが明確に決定付けられない内にどんどん工事が進んで
気が付いたら何もなくなってしまっている、そんなことにならないようにと私はことあるごとに話してきたが
どうも、悠久山の泉水池で動き出した重機を見ると
ここの、私が主張してきたメモリアルとして保存してはどうかという意見はなかなか採り上げてもらえないよで
イヤな予感がしてきたが
どうしたモノかと思っている

ここは、場合によっては今のままの車を通さない道路として自然にやさしい地域として保全してはどうかと思っている

悠久山は魂だという

悠久山は大正時代に人生の終わりにさしかかってきた60代以上の
地元経済界の人々が
人生の終わりになにか後世のためになることをしようと言うことで「令終会」という会が作られ
その人々が資金を出し合って作られた公園だと聞く

その意志を継いで
「平成の令終会」と名乗りを上げて資金集めをして作られたのが
信濃川を挟んで反対側に出来た「雪国植物園」だ
インターネットで令終会を検索すると
前の日浦市長が書いた市政だよりの原稿が検索される
そこに引用されている言葉に
「悠久山は魂」と書かれている
すごいですね、悠久山は魂だという
確かに、令終会の活動結果だというこの悠久山
この公園を後世まで残して保存する意味でも
わたしは、地震で陥没した道路を地震メモリアルとして保存すべきではないかと思っている

悠久山のサギ

悠久山のサギは毎年春先になるとうるさいくらいに
というより、実際うるさかったが、明け方、日の昇る前からグァグァと鳴いて
さらには、森が枯れてしまうほどいっぱい居て、日が昇ると鳥の糞で近くに行くとにおいがきつくて
挙げ句の果てに、洗濯物などや布団など外に干しておくとフンが着いてしまうこと、しばしばでした
しかし、いまはそのいっぱい居たサギは信濃川に移ったようです
そのことが市の科学博物館のホームページに書いてありました

水が抜かれた泉水池と一帯の木々

蒼柴神社の裏門です、緑がきれいです

駐車場の木々です

そう、これは野球場の前に植えられた並木
私の好きな並木の一つだ

例のブルーシートですっぽり屋根を包んでおられたお宅も

いよいよ屋根瓦の張り替え工事が進んでいるようだ

これは、昨年、平成16年11月20日その2、に掲載した同じお宅の写真だ

悠久山街道を長岡に戻ってきて、というとえらい遠くから戻ってくるようだが
なんてことはない中沢から栖吉川を越えて、というよりその橋は令終橋というが、その令終橋から付属小学校前の街路樹を写したモノだ

これは我が社の近く、南中から消防署方面に向かう道だ

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