「地震の記憶が消えないうちに」

10月24日(日) その5


 その頃ラジオでは、山古志村や川口町、小千谷市などでは、集落自体が孤立しているということを伝えていた。そして山古志村の池谷集落で2人の犠牲者が出たと発表があった。なんとも言えない気持ちになった。そしてけが人や被害がひどい地域を優先にヘリコプターでの避難を開始すると伝えていた。

夕方になった。夕飯の炊き出しが終わった頃、役場の職員がやってきて「山古志村は全員長岡市へ避難します。ヘリコプターで搬送するので貴重品だけ持って小学校まで上がって下さい」とのこと。日没まであとわずかしかない。私はリュックサックに着替えと財布を入れた。それから一人暮らしのお年寄りの家に向かい一緒に荷物をまとめた。錦鯉を生産している父と息子は、妻と子だけを避難させ自分達はここに残ると言い出した。そして牛を飼っているうちのお父さんも。家族が説得してもダメだった。その人たちを残し、お年寄り達の荷物を持ったり手を引いたりしながら小学校へと歩き始めた。

小学校まではずっと登り坂が続く。小学校までの道路も至るところで地割れがあり陥没していた。

車が数台乗り捨てられてあった。やっとの思いで小学校へ着くと周辺の住人が大勢集まっていた。すでに日は暮れていた。小学校は体育館の天井が落ちてくる危険性があるため中には入れなかった。自衛隊や役場職員が必死に動いていた。そして報道関係者が何人もいた。緊迫した空気が流れていた。しばらくすると「夜間の搬送は難しいため一旦打ち切ります」と行政側が言い出した。やっとの思いで登ってきたのに、と怒りが込み上げてきた。説明では「ヘリでの避難は明日以降必ず行う。今夜は小学校にこのまま残るか、自分達の集落に戻るかを集落単位で判断してほしい」とのことだった。私たちは迷わずに、今来た道を戻ることを決めた。少しでも自分の家がある近くにいたいという思いからだった。みんな同じ気持ちだった。

そして二晩目の夜を迎えることになった。また車の中で毛布にくるまった。母と二人で色んなことを話した。私が職場から真っ直ぐ帰ってきたこと、車庫からちょうど車で出ていたこと、集落のみんなで協力し合えたこと、色んなことに感謝できた。そして今日一日天気が良かったこと、天気にまで感謝できた。そして何より命が助かったということだけで十分なんだとかみしめることができた。


「この山崩れは大規模なもので、この会社の前まで土砂がきているだなんて本当にものすごい規模だ。
もうちょっと寄ってみる。山の形が変わってしまった。」(11月23日撮影)

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