「地震の記憶が消えないうちに」

10月24日(日) その4

 ラジオを聞き、ヘリコプターを眺めながらの時間が過ぎた。『仕事で長岡にいた父や県外にいる親戚の人たちは、きっと私たちのことを心配しているだろうなぁ』と思った。その頃、役場の職員が私たちの集落の被害状況などを見に来てくれた。「虫亀の闘牛場まで上がって長岡の方に携帯のアンテナを向けると電波が入るらしい」という情報を得た。私は、ガソリンスタンドのお姉ちゃんと無事に戻ってきた子に「闘牛場まで歩いて行ってみよう」と持ちかけた。みんな賛成した。そこで各家庭の親戚など一件だけの電話番号を控えることにした。一件に連絡がつけば、そこから他の親戚等に連絡してもらおうという手段だ。

3人で向かい始めた。虫亀地域に向かう途中、私たちの隣りの山中集落に着いた。「電波が入るらしい虫亀の闘牛場まで行ってみるつもり」と言うと、「だったらここから登った山の上でも電波はあるかもしれない」と言い出した。そこの集落の数人に案内をしてもらいながら、約40分かけて山を登った。途中、山古志小学校や役場のある向かいの山が見えたが、どこも至るところで茶色に崩れ落ちていた。

やっとの思いで頂上に到着した。木の合間から長岡市の空が見える。そこにアンテナを向けてみた。すると電波の表示が2本立った。まずは山梨に嫁いだ妹に電話をかけた。何度かかけてようやくつながった。私たちが無事なことを伝えた。泣きたいくらい心配していたという。すると父とも蓬平町に嫁いだ妹家族とも無事だと連絡がついていると言った。ホッとした。そして集落のみんなが無事なことを父に伝えてほしいとお願いして切った。それから預かってきたメモを見ながら電話をかけまくった。しかし電話はつながらない。何度かけてもつながらない。他のみんなも「ダメだ」と言う。その合間に私はメールセンターに問い合わせをした。すると20件以上の「大丈夫?無事なら連絡して」という内容のものばかりが届いていた。嬉しかった。メールは支障なく返信できた。しばらくみんなで携帯に集中した。

そのうちまた揺れが襲ってきた。登る時は夢中だったから気付かなかったが、山の上ということもあり危険なのですぐに降りようということになった。結局、電話はダメだった。


「 ここは山古志村役場のちょっと先。竹沢地区の桂谷(かつらや)という地域だ。ここは池谷地区、種苧原地区に向かうトンネルの百数十メートル手前の道路となる。この山崩れは大規模なもので、この会社の前まで土砂がきているだなんて本当にものすごい規模だ。」(11月23日撮影)

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