H21/11/21(土)

意外な写真

急に昼近くから雨が降ってきた

バシバシという感じで雨が降ってきた

私は長岡にある県立農業総合研究所に向かった

そこにはある胸像があるという資料を眼にしたので確認するためにやってきた

新潟県農業総合研究所(長岡市)の正面脇に、木立(こだち)に囲まれ胸像が建っている。前号で述べた水稲農林1号育ての親、並河成資(なみかわ しげすけ)の顕彰碑である。 台座には農林1号などの農作物種子が貯蔵され、「開封2951年・同11951年。指定の年次までの保存を乞う」とある。千年万年とは途方もない未来だが、当時の研究者の心意気がしのばれ、愉快である

「農業共済新聞」 1999/06/09より転載  (西尾 敏彦)

長岡にあるこの農業総合研究所は、実はコシヒカリの最初の生まれた地ということが意外に知られていない

元々、農林1号と農林22号という品種がありました。この農林1号はおいしくて収穫量も多かったのですがいもち病にとても弱い品種で、農林22号は品質が良く、いもち病に強いという特性があったので“いもち病に強くておいしく、収穫量も多い品種”として新潟県農業試験場で昭和19年に掛け合わせが行われ、この稲を福井県農業試験場で大切に育て、昭和28年に越南17号として新潟県に戻ってきました。

この農林1号の育ての親が胸像の並河さんで、この並河さんの農林1号と農林22号を掛け合わせてコシヒカリが生まれる

新潟・千葉の2県での奨励品種決定を受けて、福井県では越南17号の命名登録を行なうことになった。福井県側から、新潟県側に命名の依頼が行なわれた。新潟県は、両県がかつて含まれていた「越国」(こしのくに)に因み、「越の国に光輝く米」と言う願いを込めて「コシヒカリ」と命名した。コシヒカリは、1956年(昭和31年)に農林登録され、農林品種としては農林100号の番号がついた。

このような内容の石碑が正面玄関前のサークル内におかれていた

ところで、先の並河氏の胸像の後ろに回ってみた

すると銘板がはめられていた

そこに書いてあることは

記念種子
封入 西暦 1952年
開封 仝  2952〃
仝   仝 11952〃
此の位置の石柱内にあり 保存箇所破損の場合は修理して指定の年次までの保護を乞う

と書かれていた

先の文献とは年数が1年違うが、これは愛嬌ということだろうか

さらにいろいろ調べていたら

コシヒカリの先祖を調べると

三代前の元の米が「亀ノ尾」という品種になる

この亀ノ尾という品種を調べてみると

山形県庄内地方の阿部亀治(明治元年生)が25歳の年、冷害にも耐えた3本の穂を見つけ、28歳の年、水温が低い水口に植えた生育が良好な1株を抜穂選種し、三年の歳月を費やし「亀ノ尾」となった。

そもそもコシヒカリの先祖は水温が低いところで冷害にも耐える品種という

だからコシヒカリは平場の生暖かい水ではなく、雪解けの山水が適しているわけで

山地の段々畑のようなところで作られた物が美味しいというわけになる

ちなみに、この亀ノ尾という品種は酒米としても適していて

この種子を久須美酒造という酒蔵が長岡の農事試験場から1,500粒分けてもらって、自分で育てて酒を造った話が漫画になって

さらに「夏子の酒」というテレビドラマになって有名になるわけだ

このイチョウは栖吉の乳イチョウという

調べてみると「三貫梨の乳銀杏」という呼び名が正しいようだ

なんでも樹齢800年だという

新潟への新幹線窓からビックスワンの電気が目に入った

たぶん今日はJ1のサッカーが開催されていると思うのだが、詳しいことはわからない

私は駅前のホテルで大学の同窓会があって参加してきた

記念講演としてチョモランマ登頂した山岳部のOBの話を聞いた

実にリアルな話を聞かせてもらって感動的だった

意外な写真が撮れた

写真を撮るということの意味をいろいろ考えさせられているのだが

難しい世界なのだと思っている

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