「地震の記憶が消えないうちに」

10月23日(土) その4

 揺れがおさまると、泥まみれで地割れしている道路に置いたままの自分の車をもっと安全な場所に動かしたいという気持ちになった。このまま夜を過ごすにしても、また車で避難することになったとしても、川の近くではない少しでも安全だと思われる場所に移動させたくなった。我が家の前の道路は拡張工事に伴いちょうど工事中だった。その完成していないまだアスファルトも敷かれていない拡張した部分には、泥水も流れ込まず地割れもそれほどではなかった。そこに自分の車と母の車を移動させた。近所のお兄ちゃんも自分の車をそこまで移動させてきた。

すると数台の車が、小千谷方面から地割れを避けたり盛り上がったアスファルトを乗り超えたりしながらゆっくりと上がってきた。「この先は車で進んで行けるだろうか?」とみんなが聞く。しかしこの先がどうなっているかなんて私たちにもわからない。しかし、あの何度も激しく揺れた状況を思うと無理に近いと思えた。「ここに車を置いて歩いて家まで戻るか、それともここで夜を明かして朝を待つかのどちらかにした方がよいのではないか」と私たちは言わせてもらった。するとすべての人が「家や家族が心配だから歩いていく」と言う。きっと私もそうしたに違いないから引き止めたりはしなかった。

そのうち、あとから走ってきた一台の車の運転手が「手前の集落で火事が出ているようだ」と言う。その方向を見ていると、その集落の辺りの空が赤々としてき始め、黒い煙や赤い火の粉が真っ直ぐに昇っていく様子が見えてきた。消防署に連絡したくても電話がつながらないし、助けを求めたくても道路が寸断されていて手の施しようがないのだ。出火元の家の人やその近所の人たちはさぞかし切ない思いをしているだろうと涙が出てきた。そして後から気付いたが、小千谷方面から向かって来る車はこの車が最後だった。

「やすよ」君の自宅車庫前、「地震直後、私が転んでひざをケガしたのはこのひび割れにつまずいてコケたんだと思う。」と本人は言っている。(11月23日撮影)

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