平成16年12月16日 (木曜日)山古志村の避難所生活
我が社の社員で山古志村出身の彼女が私のところに来てこういった。
「社長、デジカメ貸していただければ避難所の様子写してきます。明日になると仮設住宅に引越が始まりますから。」
というので私のデジカメを渡して写してきてもらった。その報告と写真を本人のレポートそのまま以下に掲載する。
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地震からもうすぐ2ヶ月が経とうとしている。私がお世話になった避難所では、今日から随時仮設住宅への引っ越しが始まった。みんなが引っ越してしまう前に、避難所での生活ぶりを紹介したいと思いまして画像におさめてきた。どうぞご覧下さい。
001 12月15日。仕事を終えて徒歩2〜3分の避難所へ帰ってきた。長岡工業高校のセミナーハウスの明かりだ。ここには山古志村竹沢地区の間内平(まないひら)と桂谷(かつらや)の2集落が避難所として使わせてもらっている。
002 すでに夕食が終わり、みんな部屋でくつろいでいた。食後には和歌山県から派遣されてきている保健士さんによる血圧測定が定番となっている。ちなみにこれは私の父。地震後、高かった血圧は正常となったようだ。
003 歓談中。みんな近所の人。
004 これも歓談中(?)。みんな夜8時になると「キケン」とマジックで書かれたペットボトルをおもむろに出してきて集まり始まる。「キケン」の中身は「焼酎」だ。なぜ「キケン」なのかは、近所のおじさん達のセンスある(?)発想だと思って下さい。
005 同じく歓談中。「寝る前にお茶を飲むとなかなか寝つけなくなるから」と言って、入れたお茶を「お湯割り」にして飲むおばちゃん達のセンスの良さ(?)。ちなみに背を向けて座っているのがうちの母。
006 夜9時前になると、布団を敷き始める。救援物資で頂いた毛布を縦半分に折ったものが一人分のスペース。掛け布団の中には毛布の他に羽毛布団も救援物資として頂いた。
007 子供たちがパソコンで遊んでいた。この避難所ではインターネットが使えるパソコンが2台設置されている。
008 夜は子供たちがゲームなどをして遊んでいるが、昼間は年配者の方がボランティアさんに教えてもらいながら触っているようだ。
009 布団を敷いているというのに、まだ飲んでいる。
010 私の寝床ができた。右隣りは近所のおばちゃん家族。左隣りは父。といった形ができあがり約2ヶ月過ごしてきた。それもあと数日だ。夜10時に消灯となった。
011 12月16日朝6時過ぎ。寝ていた毛布を片付け、お風呂場、トイレ等の掃除をみんなで済ませた後は朝食の準備が始まる。玄関先で盛り付けが始まっていた。
012 朝からチンジャオロース?と思ってよく見たら、インゲンにナメタケをからめたものだった。避難してきてからずっと自衛隊から3食提供してもらっている。どの食事もすべておいしく、みんな避難所太りしている。
013 メニューは、ご飯・ふ入り味噌汁・レタス・インゲンのナメタケ和え・ふりかけだ。
014 こんな風に下に新聞紙を敷き、その上にメニューを並べてみんなで食べる。家族単位とかではなく、近所まぜこぜだ。
015 セミナーハウスの調理場で、お昼のお弁当が必要な人は朝食の残り物で作り始める。私の今日のお昼はおにぎりだ。大好きな「ゴマ塩おにぎり」だ!
016 布団代わりの毛布をたたむと、部屋の中にはこんな感じの山がいくつもできる。
017 玄関に出てみると、保育園に行く前の子供たちがボランティアさんに遊んでもらっていた。この避難所に来られるボランティアさんはみんな「子守り役」となっているようだ。お疲れ様です。
018 セミナーハウス前に常駐している自衛隊の炊事支援隊の看板。
019 自衛隊のみなさんはテント生活。申し訳ない・・・。そして、いつもおいしい食事をありがとうございます!
020 セミナーハウス玄関前。タバコを吸う人はここが喫煙所。
021 長岡工業高校セミナーハウス。
今週中にはこの避難所にいる人たち全員が仮設住宅に引っ越しする。慣れない団体生活に戸惑ったりイライラした日もあったけど、あと数日間で終わってしまうと思うと寂しいような懐かしいようなヘンな感情が湧いてくる。近所のどのおじちゃん、おばちゃんもみんな口々にそう言っている。
地震から今日まで、一体どうなってしまうのか、どうしたらいいのか、先のことが何もわからない状態で過ごした避難所での団体生活。家族だけで過ごすのではなく、地域のみんなと一緒だったからこそ、いつの間にか乗り越えられたものがいくつもあるんだなぁ・・・と感じている私です。
川上恭代