平成16年11月27日(土曜日) 曇り
昨夜は年間計画で予定されていた我が社の忘年会で、久しぶりに殿町(長岡の歓楽街)に行ってみた
我が社の忘年会場では幹事がサンタクロース姿でお出迎え
飲屋街はどこも寒々した状況か
久しぶりにやってきたお店
花一輪がステキだ
何となく切り子のグラスが鮮やかさを演出している
カウンターでチョット一杯
お店のキープボトルの入っている扉は紐で縛られて、中のものが落ちないように
富岡ホワイトといわせしめた富岡画伯の絵が飾ってある(と思っている)
お店のママに話を聞くと地震後三日間は避難所生活をやったという
お店を開いたのは今月1日からで、そのときは殿町の三分の一程度しか店が開いていなかったという
連日お客様が少なく、何となくお客様はお酒を飲んでいると後ろめたい感じがして殿町に出てこないという
お客様の話を聞くと、中には全く被害がない人がいて、そんな人は、「私は被害がありませんでした」などと人前でいえないという
昨夜のその店はけっこうお客が入っていたが、こんなに入ったのは震災後初めてだと喜んでいた
昨夜は台風かと思うくらいの強い雨風でマンションそのものが揺れてしまうくらいのすごいものだった
今朝起きてマンションの外を見たら、屋根に張ってある応急処置用のブルーシートが風に吹かれて
ぱたぱたしているお宅も見受けられた
それより、柳原の旧市役所の足場用囲いが一部めくれてしまっていたのが印象的だった
まちの中央部の一角で人だかりがしていた
どうもこれは、ホテルニューオータニ長岡のシェフで、五十六カレーを作った名物シェフが独立開業することになって
まちの中央部近くに店をつい最近オープンしたと聞いている
どうもその店の前でオープン時間を待っている行列のようだ
長岡で行列のできる店といえば、
春の美松の39(サンキュー)祭りぐらいでめずらしい
バイパスを新潟方面に向かうと左側にパチンコ屋が見える
そのパチンコやの裏あたりに仮設住宅の工事をしている場所があった
JRの車両で宣伝が栃木県の宣伝の入った番号の良いバスが目の前を走っていた
新幹線のホームは特別大きな被害は目に入らなかった
新幹線は長岡と新潟の間を折り返し運転で全席自由席、車内は空席が目立った
新潟駅の東西通路には地震の時期でなくても段ボールで囲った住まいが並ぶ
新潟駅前は大型スクリーンがビルの壁面を飾る
新潟市はほとんど被害など影響ないが、ホテルの入り口には震災見舞いが表示
研修会の終了後、新潟県診断協会の忘年会がスタート
地震の前日東京で中小企業長官賞をもらって来て翌日にドカンだったと挨拶する父
夜の万代橋が信濃川に浮かぶ
新潟駅前は若者の街頭演奏などで活気がある
長岡に着くとどこかのビルの通路を通るように駅前に出る
そして駅前は寒々として人も少ない
タクシーの運転手に聞いても人は出ていないという
木曜日の日、商工会議所である委員会が開かれた
そのとき、メンバーが一人ずつ震災の体験談を紹介するチャンスがあって話を聞くことができた
そんな中から印象的だったコメントとそれに対する私の意見を上げてみたい
「本当に困っている人が一番情報がなかった」
そう、私も地震が起きたとき事務所に電話が一本入ってきた、その電話は東京からで、うちの社員の息子さんだ
私はその彼に、長岡でけっこう揺れたのだから、さぞかし東京はひどいことになっているのだろうと思って質問したら
どうも震源地は東京ではなく、長岡近辺だと聞かされて初めて地震の震源地に私が居ることを知ったくらいだった
事実、私はその日、夜7時から橋向こうのお客様のところに訪問する約束だったが
行こうと思っていたが、けっこう揺れたのでどうしようかと悩み、結局延期の電話を入れた
そのときは、こんなに被害が大きいとは全く思いもしなかった
その日は土曜日だったから、月曜日のお客さんの所に出張することになっていたのでその書類を準備して
事務所の外に出て、道路に飛び出していた近所の人に「けっこう揺れたね、じゃ、失礼します」などと声をかけて帰った
そのとき、隣のローソンはいつも明るいのに地震と同時に真っ暗になっていたが他は普通の状況だった
そもそも、目の前の消防署がサイレンを鳴らしてドンドンと飛び出していたら「これはやばいぞ」と思ったかもしれないが
そんなに何台も飛び出すようなことはなかったから、大したことはないのかと思っていた
そう、地震直後、私は消防車のサイレンが鳴っているかどうかを注目していたが
しばらく静かな状況だったので安心していた
自分自身としては、そんなに悲惨な状況だとは思っていなかった
「被害の大きい人と、困っている人は違う」「人によって不安の感じ方が全然違う」「日々人の感じ方が変わっている」
そう、同じ被害を受けても、人によってはものすごく恐怖に感ずる人もいれば、平然としている人もいる
それはもうその人の感じ方だから、何でそんなにビクビクしているのかと思っても、本人は本当に恐怖に顔がゆがんでいる
とにかく大きな余震が続く限りは不安はぬぐい去られないから、恐怖に感じている人はドンドンと心理的な傷が刻み込まれてゆく
傍目からは何ともなさそうだが、「えもいえぬ不安」が心の奥に渦巻いている
心の奥に、真っ暗な底に古い池があって、その池の中が真っ暗で見えないけれど何かありそうな不安がつきまとう
周りが何ともないよといってもダメ
とにかく本人の不安材料を一つずつ解消してあげるしかない
不安で一人でいることが嫌だからお風呂にはいるのもご主人と一緒でないと入れないとか
お風呂場の窓を全て開けておかないと怖くて入れないとか言う話が聞こえてくる
「田麦山に取材に言ったら目の焦点が合わなかった、住民は皆目の焦点が合わない状況でフラフラしている状況だった」
これは、一番被害の大きかった川口の田麦山地区に取材で入った方が話していた
全ての建物や電信柱など通常垂直であったり四角形であったりと言うことで視覚的にも安定しているはずのものが
いびつに曲がったり斜めになったりという中にもう一ヶ月も生活していれば、だれでもそうなって当たり前かもしれない
それより心理的に滅入ってしまう、異常環境が続くのだからたまらない
田麦山ほどでなくても、我が家の悠久町の近所の人の話を聞いても同じことが起きているからよくわかる話だ
例えば、ポスターを部屋の中に斜めに張っておいたり、家具が斜めになっていたりするとどうも気になってしょうがない
逆に、注目度を上げるためにあえて斜めに「空き室あります」などという張り紙を貼っておくというようなことをやるが
全てが斜めや変形ばかりだとおかしくならない方がおかしいぐらいだ、家の周りがすべてムンクの絵で飾られたようなものだから
「農業の復活の絵を書ける人がいない」「農業用水が機能していない、農業は地域全体を見て直さなければできない」
私も農業関係の被害が気になっている
確かに農地は自分の農地だけ直しても、用水が機能しないと水が流れてこない
例の優太君が救出された妙見の場所は農業用水の取り入れ口のある場所で
福島江という大事な農業用水路の取水口がすぐ近くにある
用水路のどこかがひび割れして水が流れなくなってしまっていると下流の田んぼは田植え時期に水を確保できるのだろうか
不安の残ることだと思った
さらに農家は高齢化が進み、農機具などが今回の地震で壊れたようなことになれば
借入までして新規に農機具など購入して農業経営を続けられるかというと、廃業を考える人が多くなると思われる
事実、今回の地震で被害の多かった建物というと、2階建て木造瓦葺きで古い建物
まさに農家の農作業小屋などそのパターンが多く、倒壊建物の下敷きになた高額農機具がダメになっているケースは多いと思われる
これは、農業だけでなく多くの中小零細の町工場にも言えることだと思う
「物流の良さには驚いた、避難所で配給のパンを配っている脇で、セブンのチンした焼きおにぎりを食べている人がいた」
だから、配給のパンを行列をなしてもらおうと並んでいると、自分が何か惨めなホームレス(事実ホームレス状態なのだが)に
なってしまって、人からほどこしを受けている状況がいやになってしまう
他に生きてゆくために仕方がないのであれば、そして皆がそうしているのであれば我慢もしようが
脇ではのうのうともっと美味しそうなものを食べており、自分だってお店に行けば買えるなら、そうお金がないわけではないのだから
何も配給品に頼りたくはない、そんな惨めな思いまでして配給の列なんかに並びたくないと思うわけで
そうすると、配給品が余ってくる、だれも手を出さなくなってくる
喜多方ラーメンの配給があったとき、数千食も用意したのに余ってしまったという話を聞いた
実際、私の所では地震があったのは土曜日の夜だが、昼間のお弁当配達は火曜日からいつものように配達されていた
もっとも月曜日は様子見で休んでいたと言うだけで、悲惨な状況だったわけではない
「避難所ではワガママな人と勝手な人が多かった、ペットを抱いて寝ている人がいた、その脇で子供が寝ているのに」
このコメントは長岡の中心部の避難所に避難した方の意見だ、まちなかの避難所はワガママな人が多かったと思う
私が知っている栖吉地区はチョット町から離れた地域だったせいか、若い人でワガママな人も目に入ったが
どちらかというと年寄りが多かったせいか「お互い様」という意識が強く、みんなで我慢しあっていたと思う
年寄りの効用とでもいうのか、地域コミュニティーをまとめるものはやはり年配者という役割の大事さを感じた