H21/11/08(日)

朝焼け

今日は午前中、少しそわそわしていた

理由は

長岡市芸術展覧会なるところに私の作品を3作出展した

その入選ではなく入賞作品該当者には午前中に連絡が来ることになっていた

実は

今回出品の作品は自分でも良いかなと思っていた作品で

まわりの評判も上々だったので何とか3年目にして入賞できるかなと期待していた

だが結局、入賞の連絡はなかった

そう、単に写真を写しているだけではなく

それなりに評価される作品を作りたいと思う

何か賞をもらえるレベルに上達したいものだと思い始めた

そんな中でそろそろ今年は市展入賞を期待していたのだが現実は甘くなかった

 

そこで考えた

よし、来年こそ市展で入賞するようになろうと

ではどうすればよいのかと思い巡らした

写真を単に趣味としてきれいに写ればいいのだと言うことでいたら入賞というレベルには達しないだろう

写真というものに対するキチンとした哲学というか姿勢を明確にして行かないと

コンテストで入賞できるような写真などほど遠いのではないか

まずは写真というものがどういう歴史を通って現在の到達点はどこに来ているのか

そんなことを知って置く必要があるのではないかと考えた

どうしようかと思ったとき

長岡の図書館は写真関係の図書が充実していると聞いたことを思い出した

早速図書館に行ってみた

 

いろいろ眺めて三冊ほど借りてきた

「写真について話そう」飯沢耕太郎著 角川書店 2004年刊

「20世紀写真史」伊藤俊治著 筑摩書房 1988年刊

「名作で辿る世界の写真史」重森弘奄著 毎日新聞社 1993年刊

 

この中で「写真について話そう」という本がわかりやすくて良くまとまっていた

早速読み切った

いろいろ歴史の中で人々が苦労して思い悩みながら歴史と共に動いてきたのだと感じた

そしてこの本の最後の章に写真と「デジグラフィ」と題してこんなことが書かれていた

 

そう。だから、ある面から見れば「デジグラフィ」は「新しい写真」というより「新しい絵画」といえるかもしれない。

だって、コンピューターを使った制作の過程は隅から隅まで意識化されていて、

写真の表現に特有の無意識に身をまかせるやり方とは、まったく異質なものになっているでしょう。

 これもバサンが書いているんだけど、「すべての芸術は人間の存在を基盤として成り立っており、写真の中においてだけわれわれは人間の不在を享受することができる。」

・・・

うーん。「人間の不在」か。たしかに、夢中になってシャッターを切り続けていると、自分が被写体に同化して、ふっといなくなってしまうように感じることがあります。

・・・

その感じは、写真家ならだれでもわかるんじゃないかな。自分がいなくなって、その代わりに現実世界の断片が異様にリアルに、

なまなましく見えてくる。それはたしかに写真の魅力と楽しみの原点だね。

・・・

「デジグラフィ」にはそれがないということですか?

・・・

うん。少なくとも例の「改変性」を表現の中心に据えたような作品はそういえる。

それが一見写真とよく似ていても、かなり違ったレベルにあるんじゃないかな。

 

この著者は、「フォトグラフィ」に対してデジカメ写真は「デジグラフィ」だと言っている。

そして、「デジグラフィ」は新しい写真というより新しい絵画なのだと言っている

それはデジタルであるがゆえの「改変性」を意識しての話なのだろう

私は今までカメラに対して手軽なカメラとしてデジタルカメラをとらえていたが

それはあくまで写真撮影の道具としてのデジカメであったが

撮影する道具から、撮影したものを見せるという手法において

Webや画像処理ソフトの活用という場面を意識するとき

「フォトグラフィ」は「デジグラフィ」となるということなのだろう

すると、私はデジカメを持ちながらいままで「フォトグラフィ」としてしかカメラを活用してこなかった

デジカメを使うということは「デジグラフィ」として活用することも範疇なのだ

それはもはや「新しい絵画」という発想が必要なのだと知った

 

最近私はこの点について悩んでいた

「フォトグラフィ」としてのカメラ撮影だけを意識してきたが

撮影したデーターを画面で見たものと印刷した結果が違う

もっとも、実際目で見た感じとデジカメで写した結果がそもそも違う

その違いを面白いと思って写していた

自分の見た目の実像世界と、デジカメを通してデーターとして捕まえた世界が違う

さらにそれを印刷する段階でまた違ってくる

いわば2段階、デジカメに取り込む段階と印刷する段階で変化が起きている

いままではこのデジカメに取り込む段階の変化を意識した撮影が「フォトグラフィ」であったのではないか

そして、それをなるべく忠実に印刷するか、工夫するかは暗室の中の技術の問題だったのだろうか

あまり工夫しすぎると拒絶反応が見る側に起きていたのかもしれない

 

そこに、こんどはデジタルであるということから取り込んだ「フォトグラフィ」としてのデーターを

「デジグラフィ」としてのデーター加工による絵画の世界に入ることができる

ここがデジカメの特徴ということだろうか

その後の印刷という工程は今までと基本的に同じ問題を抱えているのだろうか

 

このデジカメデーターを加工するということは

いままでの「フォトグラフィ」からみれば入っては行けない場所

危険な場所ということのように思える

事実私も、加工ということに対して罪悪感のような気持ちがあったが

「デジグラフィ」という世界があることを認識すれば

それはそれで新しいジャンルなのだという認識で対応することが良いのかと思い始めている

 

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