平成18年05月15日(月曜)

今日はすがすがしい日差しで、草木の緑が目に輝きを見せてくれる

若葉の伸びが、髪が伸びたように見える
剪定(せんてい)の時季が近いのだろうか

若葉の奥には白い花が見え始めている

ひょんなことから河井継之助の墓に行ってみようということになった
たぶんこの近くだろうと言うことで人に話を聞いてみたら
この裏ですよ、すぐですよ
ということで行ってみた
その人の話では長興寺だという
早速行ってみた

看板が立っていた

山本五十六の墓という説明があった
山本五十六は旧姓高野という姓で明治維新の戊辰戦争で活躍した
山本帯刀(たてわき)の山本家に養子に入って山本姓を名乗るようになった
そのため山本五十六の墓の隣には山本帯刀の墓もある

その山本五十六の墓の敷地内にあったのであろう
他の墓は先の地震で倒れて壊れたのだろう
墓石が横になって片付けられていた

墓の敷地のまわりの石も倒れたのだろう
はずれたままになっている

ここ長興寺の墓地をあちこち見て回った
薄くなった目立たない説明書きが目に入った
近くに行ってよく見ると次のような説明が書かれている

稲垣平助の墓

 長岡藩筆頭家老の稲垣家は、藩主牧野候の三河(現在の愛知県)在住以来、随従して苦労をともにし、藩主を補佐した。長興寺は、稲垣家によって興された。
  代々平助を通称とし、家禄は幕末期で二千石であった。
  幕末の平助重光は、 北越戊辰戦争の際、勤皇恭順説を唱え、藩中に孤立した。その六女鉞子は、アメリカに渡り「武士の娘」などを著した。     長岡市教育委員会

このお寺は長岡藩の武家が集まっているお墓のようだ
このお寺を興した人が、長岡藩の筆頭家老だというから当然
このお寺は町民などいるわけがない

しかし、目的の河井継之助の墓は見あたらない

なぜ、河井継之助の墓を探すかというと
以前、私の知り合いがたまたま長岡に来たとき
時間が少し取れたようで、河井継之助の墓を見に行ってきたという
そうして彼は私に

「高野さん、河井継之助の墓を何であんな線路の脇でわびしいところのままにしておくのですか」

と質問された
私は実は河井継之助の墓がどこにあるのかわからなかった
たぶんあちらの方だろうな、と言う程度であった
だから彼が言っていることが本当はわかっていなかった

気になっていた
どんなになっているのだろうか
線路の脇で惨めな状況にさらされている状況とは

そうおもってやってきたのだが
ここ長興寺は線路から少し離れている
線路の脇にお墓はない

おかしい、どこだ
そこであちこちに電話して場所を確認しようとしたがわからない
丁度タクシーが止まっていたので
タクシーの運転手なら長岡の有名な河井継之助の墓となれば
わかるはずだと思って聞いたが
わからないという
そこで、線路の脇で・・・と言う話をしたら
そう言うお寺なら栄涼寺だろうと教えてくれた
そのお寺は近いと言うことで言われるように行ってみた

踏切をわたると、おぉぉっっと
この踏切は「女学校踏切」と命名されている
何、「女学校踏切」
初めて見た名前だ
そう言えば、斉藤女学校という私立の女学校が
昔あったように聞いている
それは今の帝京高校のはずだが
それとも現在の大手高校
昔の第二高校が近くにあったことは確かだが
ここからちょっと離れたところ、現在の労働基準監督署の場所だから
第二高校ではないが・・・ま、とにもかくにも
いやはや、これは発見だ
「女学校踏切」という名前が良い

どうもこれが栄涼寺のようだ、ちょっと雰囲気が違うお寺だ

お寺の屋根の上にはおもしろい形の避雷針が設置されている
屋根の紋瓦を見ると長岡藩の牧野様の紋、「三つ葉柏」だ
このお寺に間違いないだろう

墓地に入ってみると、あちこちで墓が倒れたままになっている

大きな敷地の墓が目に入った
旧越後長岡藩主歴代の墓と書かれている
まわりには牧野家の墓が並んでいる
それもまわりに並んでいる墓石は
明治以降の牧野家の墓石のようだ
江戸時代のものは悠久山の蒼柴神社の境内に揃っていたように記憶する

どうもここの墓地は殺風景な雰囲気がする
この後ろに見える三階建ての建物は国家公務員の寮のようだ
確か税務署の職員もこのこのあたりに寮があると話していたことを思い出した

ようやく見つけた、河井継之助の墓だ
説明書きを見ると1827年の1月1日生まれと書いてある

手前の古びた墓が河井継之助の墓だという

確かに、すぐそこを電車が通っている
高架は新幹線だ、まわりは惨めなぐらいに殺風景だ

まわりの墓は地震で倒れたままのようだ

何なんだろうか、わざわざこの墓まで訪ねてくる人がいるというのに

まわりの墓石は倒れっぱなし

お墓の管理が追いつかないのだろうか
それとも縁者がいなくなって管理されていないのだろうか
はるか遠方から河井継之助の墓を参りに訪ねてくる人に
中越地震の記録を見せるためには
まさにこのままにしておいた方が
皆さんには衝撃的な印象的を与えるから良いという意見もあるかもしれない

しかし、わびしさというか、惨めさというか、寂しさというか
ん、タダでさえもこの墓のまわりは殺風景で歴史の重みと言うよりも
風化することのつらさのような雰囲気が、この河井継之助の墓のまわりにはある

もうすこし緑の木々を植えるとか、塀で囲うとか

この記念石は目安になることでよろしいかとは思うのだが
やはり私の知り合いが言っていた意味がわかった
あまりにも寂しすぎる

私が学生の頃、東京に行って初めての人と話をするとき
私が長岡出身だと話すと
多くの人が河井継之助の名前を挙げる
長岡ではあまり多くを聞くことはなかったが
東京に行って河井継之助の話はよく聞かれる
そんな長岡の偉人なのに
このお墓のまわりのなんと寂しいことか
お客様に観光案内するにしても
ここに連れてくることが躊躇される雰囲気がした
これは長岡の人間としてお客様に見せられる状況ではない
そんな風に思った


河井継之助の墓から隣の敷地に建っている税務署の寮だろうか
それがよく見える、というよりあまりにも見えすぎるという感覚だ

ちょっと歩いていたら、通路いっぱいに
蜘蛛の巣が張っていて通れなかった

なかなかここのお寺は手がないのだろうかと思った

他のお墓を見て回ると
ひときわ大きなお墓が目に入った
なんでも長岡藩士のお墓らしい
由緒書によると菅原道真公の末裔らしい

ここのお寺は牧野の殿様のお墓があることから
長岡藩の由緒正しいお寺なのだろうと推測する
この長岡藩の武士であったことを誇りにして
わざわざここに一族の骨を全て集めて大きなお墓を造る人がいる
ということは、牧野のお殿様とおなじお寺に
自分の祖先をまつることの名誉というか、誉れというか
やはりここは由緒正しいお寺なのだと思った

そういえば、今でも長岡藩士の会なるものがあって
毎年定期的に集まって墓参りをしているというような話を聞いたことがある

しかし、このお寺は何か一風変わった大きなお寺だ

位置関係がわかりやすいように地図を用意してみた
地図は上が北だ
(1)が山本五十六の墓などがある長興寺
(2)が女学校踏切と名付けられた無人踏切
(3)が河井継之助の墓がある栄涼寺
地図の左上に見える大きな建物は立川病院だ

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