平成18年01月09日(月曜・祭日)

TVを見る「物語と報告」

昨夜、テレビを見ていた
「藤山直美とすてきな仲間たち」というNHKのBS2でやっていた
そのなかで文化庁長官の河合隼雄
このひとは京都大学名誉教授で心理学の先生だという
この人との対談がおもしろかった

「物語と報告」
子供は母親にお話をしていない、単に報告をしているだけだ
報告は心が通わない、お話は心が伝わる

「俳優と教師」
学校の先生が子供たちに何かを伝えようとするとき
それは俳優が観客に何かを伝えようとするときと同じだ

「みけんとみぞおち」
俳優はその役にのめり込んではいけない
頭の中では眉間の方で役になりきろうとしているが
同じ頭の後ろで冷静に状況を把握している
それは頭から離れ壁際で見ているのではなく
自分の頭の中なのだが眉間と後ろ頭のなかで起きている
さらに、眉間で考えてるだけでは観客に伝わらない
相手の眉間に伝えるのではなく
相手の眉間からみぞおちあたりにスーッと落ち込んでゆくような伝わり方が大切

「喜劇と悲劇」
悲劇の中には劇がある、葬式の時はみな悲しいという状況を演じてゆく
悲劇は型がある
喜劇には人の心を解放するので型がない

「祭りと葬式」
これも同じで、葬式は様式というような意味だったと思う

「セピア色と原色」
一生懸命やってきた、原色でぶつけてきたが
原色を出さずにちょっとぼやかしてセピア色にしたほうが
ぼやかした方が本物がある

今日は穏やかな天気だ

連日、津南町では四メートルにならんとする大雪で
昨日県は自衛隊の派遣要請をしたとのこと
ようやく今日は晴れ間が出て、皆さん雪ホゲ(掘)に精を出していることだと思う

日差しを浴びて、我が家のシクラメンはきれいに咲き誇っている

先日、まちなか考房で買い求めてきたカレンダー

カレンダーの一月、このカレンダーは保存版だ

本当にこんな格好で、いわば半ズボンで歩いているようなもの
真冬に半ズボンとは驚きだ

この雰囲気は良いと思う
商店街でもこんな雰囲気の演出ができないかと思う

町の演出をきちんとできないかと思う
町に出てみたいと思うことはこんな演出があってこそだと思う

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「弁顕密二教論」を読む

要するに、見えるところと見えないところがある

見えるところだけで物事を判断すると間違う
見えないところに大事なポイントがあるのだと
見えないところとは心や意志というような部類のことで
見えるところのことを「顕」と言い
見えないところのことを「密」と言う

この見えないところにこそ本当の姿があると
さらに、見えない心の中にも10分類あるという
眼で見て認識する「眼識心」から始まって
耳、鼻、舌、身、意と進む
ここまでで六段階
さらに、末那(まな)、阿梨耶(ありや)、多一(たいつ)と進む
ここで九段階目

そして十段階目は「一一(いちいち)」となる
曰く「一一識心」
ここまできたときに初めて本当の真実を対象とすることができると言う
最後の十段階目だけが本当の真実を対象としていて
その前の九段階までは真実をつかんでいないという

とにかく、見えないところの「密」に本物があり
見えるところの「顕」には本物はない
見えるものに惑わされてしまっていると

んん、なかなか厳しい教えですな
さらに「密」にも三つあると

身体と言葉と心に作用する「密」で身密・言密・意密というと

また、「顕」と「密」とは相対的なもので
浅いところから見れば深いところは「密」で浅いところは「顕」だと

ここで説明を読んでいて気になった
深いところから見て、浅いところは「顕」で、深いところが「密」だと言うことではなく
浅いところから見て、深いところが「密」だと言って説明している

自分のいる場所が十分深い場所だから「密」で、浅い人がいるとそこは「顕」
ではなく、自分のいる場所が常に「顕」で、もっと奥に「密」がある
自分は「密」ではなく、「密」に向かおうとしている自分が「顕」だという風に思えてきた

最後に、「秘密」にも
皆が知っている秘密と本当の秘密の二つあるという
皆が知っている秘密ということは「顕」であるが
その人の程度に応じて、いわば病人の程度に応じて薬を与えるようなもので
その人の認識不足や無知のために知らないでいることを
その人の程度にあわせて知らせてゆくやり方は有効だと
それが「顕」の教えだという

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日差しが雪に反射してまぶしい

みなさん雪ホゲ(堀)に精を出している

屋根の雪は1メートルほど積もっただろうか

一番被害が起きるところは屋根の軒先
まずは軒先を早めに雪下ろししておかねばと言うことだろうか

新雪に足跡がくっきりと残る

最近の我が家の楽しみはテレビを見ながらインターネットにつなぐ
手元にパソコンを立ち上げておいてインターネットにつなぎなららテレビを見ている
そんななかでわからないことが起きてきたらすぐにインターネットで検索する
たとえば地名でわからない場所とか、わからない言葉とか、はたまた番組の検索とか
とにかく何でも検索できる
そう、テレビを受動的に見るのではなく自分の情報収集として能動的に見る
ここがポイントではないかと思う
受け身のテレビでなく能動的なテレビの活用が良いのではないかと私は思っている

そんなことを思っていたら
テレビの番組がパソコンに連動すれば良いのではないかと思ってみたが
これではやはり受動的なテレビのみかたになってしまいそうで、ダメダメ
やはり能動的な、自分の意志でテレビを見るようにしなければ
そうでなかったらテレビを消すことが必要ではないか
そう、ただだらだらとテレビを見ていることが一番よろしくない
そんな風に思っている

テレビとパソコンは当然のように融合してゆくだろうし
私のような活用方法はこれからもっと増えてくるような気がする

テレビを見るときはパソコンを目の前においてインターネットにつないだ状態で
テレビを見ることがよろしいかと思います、ハイ

ちなみに、この方法は
パソコンの電源コードとインターネットの線がじゃまだと厳しいクレームが
どういう訳か、不定期に不意打ちのごとく、まるで足もとをすくわれステーーンと倒される
そんな経験を積み重ねたところに成り立つ環境だと言うことを理解しておかなければならない

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