H23/06/19(日)

三陸の沿岸部を視察してきた

石巻市内から港に向かって小高い丘に登る

鹿島御児神社なる場所に出る

そこから周りを見下ろす

車を海岸方面に走らせる

何も無くなった造成地のような被災地を「被災地ファッション」とでもいうのだろうか

何となくこんなファッションが被災地にあうのだ

振り向くと先ほどの小高い山の麓にある学校が焦げていた

ここは重油が流れ出して火災になったようだ

あたりまえのようにこんなタンクが転がっている

なぜか海鳥が我が物顔で大量に飛び交っている

石巻から車で北上すると、隣が女川になる

海から一つ丘を越えて隣の入り江に向かう途中の山中から、まだ海の見えない場所なのに

家が無くなっている、こんなに内陸まで津波が上がってきたのかと驚く

女川町の入り江に着くとテレビの中継中なのだろうか、TVクルーが取材中だった

視察の人も大勢いる

バスが建物の屋上に乗ったままだ

走っていたら、大きな川にぶつかった、北上川の河口付近だ

しかし橋は通行止め、そしてその脇に人々が集まっていた

そこにあったのは、あの学童の7割が死亡したという大川小学校だ

校舎は建物の外形が残っている程度

構内に入ってみるときれいに片付けられており

隅に若干の遺留品がまとめられていた

そこにあった泥まみれになっていた時計は、あの時間を指して止まっていた

教室の壁は海方向に面した壁はなくなっていた

コンクリートの柱も倒れ、その倒れている方向は海に向かった方向だ

人々がここに来て手を合わせていた

裏の山は急な斜面で、そこを小学1年生の手を引っ張って登っていったと聞く

建物の高さを超える津波に追い立てられるように山に登ったと聞く

途中、神割崎に立ち寄る

なんでも昔、鯨が打ち上げられて、その鯨はどちらの町のものかと争いがあったとき

雷が落ちて、この割れ目ができ、ここを町の境にすることになったというような説明を受けた

南三陸町が見通せるドライブインで昼食を取った

そこから見ると、南三陸町の津波の後が見渡せる

お店の人に話を聞く

津波が来たときは波頭をたてて見えるようなことはなく

全体が盛り上がって、その日は雪が降っていたのだが

町の方でほこりが黒く舞い上がっていて、それ以外は何も見えなかったという

がれきの中を当てなく歩く女性が印象的だった

南三陸町は、まだ、がれきの山だ

大きな建物の屋根には壊れた住宅の残がいが乗ったままだ

がれきの地区を一本の水道管だろうか、仮設の水道管が走っていた

たしか、あの最後まで避難を防災無線で訴えていた女性がいた場所はこのあたりだろうか

海沿いに単線の鉄道が続いているが、あちこちで切断されている

気仙沼線だ

ここも町の海側を高架橋で鉄道線路が走っているが

やはり途中で切断され、さらにはその高架橋の上に屋根が残されている

流された住宅の土台の上に、自衛隊だろうか

かごの中に見つかったアルバムが入れられていたが

そのアルバムは、3ヶ月たった今でも野ざらしになったままになっている

この家の人は一人もいなくなってしまったのだろうか

籐のイスが残されていた

ようやく気仙沼に入ってきた

銀行の建物、2階の海側の壁が全面壊されている

気仙沼の港には船が走っていた

港の道路は壊されて陥没している

海上自衛隊の船が陥没した波止場に停泊していた

線路もめくれたまま

南気仙沼駅前だ

もう、言葉もなく

勘弁して欲しいという感覚になる

こんな環境に毎日さらされている被災地の人は落ち込まない方がおかしいという感覚を持った

当然、すこしでも消費を上げるために

そう、私は犠牲的に仙台の「利久の牛タン」を食べるのであった、ハイ

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