この本の主役はノーラ
私は以前から「人形の家のノーラのように・・・」というような話を何かの雑誌なり本なりで読んだことのある表現として記憶している
ノーラの生き方が衝撃的であったが故に、何かのたとえとして「人形の家のノーラのように・・・」という表現が使われていたのだろうと思っていた
この本は3幕構成である、全ては同じノーラの家の居間が舞台、この居間もドアを通して玄関や書斎そして玄関の外の階段や階上の家など舞台の奥にある世界の広がりが伝わるように設定されている。3幕構成になっている場面設定は時間のズレである。クリスマスイブ当日の午後が1幕、2幕はその翌日夕暮れ時、3幕は更に翌日の夜更け。
この本を読み終えたときに感じたことは1幕と2幕のノーラと3幕のノーラはえらい違う。
最初の流れからするとノーラが秘密を隠すために、嘘をついていたことがばれることをおそれて殺人にまで追い込まれ、思いあまって殺してしまったあとから、実は誤解であったというようなストーリー展開になるのではないかと感じていた。ところがどうであろう、3幕でのノーラは急に自立した強い女になってしまう。
1幕は明るく振る舞っている「ノー天気」なかわいい奥さん、2幕は一人で思い悩んで早まったことをするのではないかと思うような「浅はかな女」、3幕は「自立した女」
最後には夫がかわいそうなくらいみじめな男に描かれている。んーー、ここは読んでいてつらいものがありますなー
この作者は登場人物の過去の背景を相手に語らせるパターンが多いことと、これは訳し方の問題だと思うのだが、主語述語と文章が流れて行くのではなく逆転した書き方、述語主語というような会話風とでも言うのか、そんな文章表現が目に付いた
読んでいて気になった場所がある
3幕のいよいよノーラが夫から自立するセリフが始まる前、友人のリンデ夫人が帰る場面で編み物と刺繍の比較をしている。ノーラの夫がリンデ夫人の編み物を見て言う、刺繍はきれいだし刺繍をしている姿がいい、それに比べて編み物は体の前でチョコチコとやっている、まるで昔の中国人みたいでぶざまだと言う。このセリフを境に「自立した女」ノーラが現れる。なぜこんな会話を入れたのであろうか。ノーラの夫は物事の本質ではなく見た目だけの自分の感覚で刺繍と編み物を比べてその基準を他人にも押しつけようとしている、そんな夫であることをこれから始まる「自立した女」ノーラとのやりとりの前に観客に訴えるための場面なのかなといまになって思うが、読んでいたときは何でこんなセリフを入れるのかよくわからなかった。
登場人物のドクトル・ランク、この人物は何を表現したかったのであろうか。人生の末期を明確に意識した人物の登場で、ノーラの「自立」を際立たせるためのものであったのだろうか。
ノーラの親友リンデ夫人の昔の夫が実は問題の人物ニルス・クロクスタであったことが3幕で暴露される。なんとなく陳腐な感覚もないではないが、結婚とは、女とは、人とは、というような問題を投げかけるために必要な設定なのかもしれない。
乳母の存在もノーラの自立場面に必要な存在。そんな風に考えて行くと、この本はけっこう奥深いと感じてきた。
高野裕(平成12年8月25日)記