第1回市民劇 上杉祥三作演出「舞台役者症候群像」
練習日記6 平成13年7月24日(火)
7月24日(火)
やっと終わった
私は、第1回市民劇を振り返ってみた
今回の「市民劇」は「市民劇」だったのだろうかと
私の4月15日の日記にはこう書いてある
私は間違いだった
リリックの掲げている「市民劇」は
私のようなド素人が参加する場所ではなかった
もっとレベルの高い人たちの場所であった
県内アマチュア劇団看板スター合同演劇研究会だった
「市民」といってもローマ時代の市民(シチズン)と同じ
要するに選ばれた者達を言う
私のようにド素人の「庶民」がノコノコやってくる場所ではなかった
私が近づく場所ではなかったようだ
去年までの野外劇は「庶民」劇だった
楽しかった
おかげで私も演劇に始めてふれて
演劇のトリコになり始めていた
のぼせ上がっていたのであろう
いい気になって、選ばれた者達シチズンの「市民」劇に迷い込んでしまった
そこは「庶民」などが顔を出すような場所ではなかった
昨夜、私の日記を全て読み返してみた
演劇は犠牲の上にしか成り立たないのか
そんな苦しさが演劇なのか
力量が足りない自分
練習量が足りない自分
そんな絶対的なるレベルに達していない自分
負け犬の遠吠え
そんなふうにも思えてくる愚痴もいっぱいあった
今回の劇は組織的な対応が十分でない
というより、出来ていなかった
従業員4〜5人しかいない零細企業が5、6社ほど合併して
新しい会社を作った場合に似ている
今までの社長は大きな会社の中に入れば
単なる係長レベルであったり、課長レベルであったり
逆に言えば、小さい会社だったから社長となっていただけで
大きな会社になったら社長の器でない
5人の会社の社長と30人の会社の社長、100人の会社の社長
やはり違う、社長の器が違う、組織が違う、システムが違う
劇団の代表をやっているからいつでもトップリーダーをやれるわけでない
その人の器がある
それと同じことで、職人のなかでピカイチの腕を持っていたとしても
職人のトップにさんぜんと輝いていたとしても
社長としての力量があるとはいえない
というより社長と工場長は違う
また、上場企業の工場長経験者が
頼まれて地方の中小企業の社長をやったとしたら
うまくいくかというとそうはいかない
上場企業では十分なシステムと優秀なスタッフがそろっている
そんな中で自分の力量を発揮できたとしても
何もない、何も出来てない、何も知らない地方の中小企業で
同じことができるわけがない
それがうまくいくためには新社長は当然
受け入れ側の専務以下全社員が一丸となって
新しい社長を受け入れる体勢が絶対必要だ
大変なことである
役員は新しい社長を受け入れようと決めた責任上一生懸命になる
それでも問題が多発して愚痴ってしまうだろう
それより問題は社員だ
社員に十分な方針と方向性を、なぜこの新社長でなければならないのか
そこいら辺を十分に納得させておかなければ動かない
今までと全然違うことをやろうというのだから社員が動かない
役員だけで会社が動くなら良いが
実際は社員がいなければ動かない
新社長が地方の中小企業を動かす方法にたけているのならいい
ところが、大会社である上場企業の工場長を努めてきた者に
地方の中小企業の社長が務まるのであろうか
何もない、システムも、常識も、設備も、人材も
大きな方向転換することは勇気のいることであるし決断のいることである
大きな時代の流れの中で
リリックを拠点とした演劇をどのように進めてゆくべきか
リリックが新潟県における演劇活動拠点としてどう進むべきか
長岡市のリリックはどのような演劇活動の方向付けをなすべきか
このようなことを考えて今年からリリックの演劇指導者が替わったのであろう
そうであるなら、もっとリリック演劇の方向性を明示する必要があると思う
その方向性について議論を交わすべきである
方向性を作ってゆくべきである
リリックは演劇のエリートを育てようとしているのか
それとも演劇を少しでも知って、触れて、演劇の楽しさを感じて、
演劇人口のすそ野を広げようというのか
または、両方をねらっているのか
昨年までの野外劇はすそ野を広げる意思が見えた
そして、それは着実に広がっていた
今年はエリートを育てようとしているのだろうか
今までとは全然違う方向性のように思える
というより、リリックの方向性が見えない
参照 「リリックよどこへ行く」