「桃源郷」
株式会社パートナーズプロジェクト
代表取締役 中小企業診断士 高野裕

今思うと、地震の翌日はあちこちで停電していて信号は点いていなかったが交通事故は目にしなかった。道路はあちこち陥没していたり、マンホール飛び出していたりでスピードなど出せる状況でなかった。道路の状況や周りなど見ながら、自分の目で確認しながら一歩ずつ歩くような感じで車を運転していた。たぶん時速2〜30キロで走っていたのだろうと思う。交差点に来ればお互い注意しながら譲り合いの精神で進んでいたし、交通量の多いバイパスでも信号が点いていなくてもそんなに混乱無く道路を譲り合っていた。全てがゆったりとした自分の体のリズムにあった、というより自然のリズムに合った動きをしていたような気がする。だから素直に驚き、素直に考え、素直に感じていたように思える。それからしばらくして、道路が段々直り、県外車が入り込んできたときから何か違う金属で切り裂くような異文化が、土の文化に鉄の文化が入り込んで支配してしまったような、そんな感じを持ったのを記憶している。「俺は忙しいのだ、時間までにこの物資を届けるのだ、どけどけ、何トロトロ走ってるんだ」、というような雰囲気で鋭角に走ってくる。まるで刃物が走ってくるような恐怖を感じた。次の瞬間、飛び込んできた鉄の文化に負けまいと思い、自分もまた早いリズムに乗るように切り替えた。そして、その途端、今までの夢のような桃源郷のようなゆっくりと流れている世界が幻のごとく消えてしまった、そんな不思議な経験を思い出す。
これは、私が昨年11月22日に私のホームページに書いたメッセージだ。私はあの瞬間から写真を撮り始めた。そして、その写真を毎日HPに掲載してきた。そして、その掲載は1年以上経った今も続けている。この記録が後々のために何か役立てばと思いながら毎日写真とコメントを掲載している。そんな中から抜粋してみた。

「モノよりお金」12月7日
今日、夕刊に巻町から山古志や長岡の小学生に文房具が配られたという。その裏話として、子供達に何が欲しいと聞いたら筆記用具ということでシャープペンシルを用意してあげたら、ドラえもんやアンパンマンなどのものなら欲しいけれど、単なるシャープペンシルではと反応が鈍かったとか。
被災者だからものが不足して不自由しているのではないかと思うかもしれないが、今の時代はモノ余り時代ということで単なるモノをもらってもだれも喜ばない。喜ばないどころかいやがられてしまう。モノをもらっても自分の好みに合わなければいらないということになる。被災地は義捐物資より義捐金のほうが喜ばれる。ヘタをすると義捐物資は迷惑がられることもある。親切が相手にとっては迷惑になるようでは悲しいことだから、今回の教訓として、私はモノよりお金と感じた。

「せめてこたびはかくありけりと…」11月25日
そもそも、今人が住んでいる場所は、昔地滑りがあったりして平地ができ、そして住めるようになったわけで、日本に住んでいる限り地震とは共存するしかない。むしろ、我々は地震が作ってくれた自然の上で生活をさせてもらっていると理解すべきだ。そして、「せめてこたびはかくありけりと・・・」と小泉其明が書き残したように、我々も地震の様子やその後の復興の状況など、子孫への戒めとして書き留めておくべきだと。今日の講演を聴いて、私が睡眠時間を削ってまで毎日更新しているこの震災の状況報告も必要なことなのだと意を強くして、もう少しやれるだけ続けてみようかと思った。
続きはHP(http://tmc.nagaoka.niigata.jp)へ。

「長岡商工会議所2005年12月号会報」掲載原稿

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