中越大地震 私のコメント

10月27日
お客様は待ってはくれない、いくら災害とはいえお客様は待ってはくれない
そんな状況の中で私はグッツングッツンと地震がおそってくる会社で1人残業と相成った
いつまでも地震ですがとおる話ではない、相手は地震など関係ないところで動いている
そんな甘えの中にいれば長岡は世界の経済から取り残されてしまう
地震なんかに負けてはいられない、グッツングッツンと来てもかまってはいられない

「お互い様」という言葉を久しぶりに聞いた
避難所に行って、場所がないとき、場所を融通してくれたおばさんが「お互い様ですテ」と長岡弁で言った
この避難所というコミュニティは運命共同体というような「お互い様」精神が広がっているようだ

携帯電話が完全に必需品になってしまった
もう、非通知なんて言っていられない
私個人としてはあまり携帯を使わないようにしていたが
今回の震災でこれしか連絡手段が無いとなれば携帯を積極的に使わざるを得なくなる
そうなると、携帯のバッテリーが問題となる、とにかく電気がないところでは非常に不便となる
そこで電池取り替え式のバッテリー充電器が必需品となる

10月28日
帰ってきて会社でお客さんと打ち合わせをしていると
今度は、いままで少しぐらいの揺れはさほど気にならなかったのだが
一度、揺れのない地域で安心して半日ほど居たら
被災地の揺れがやはり気になってしまった、つくづく人間とは不思議な仕掛けを持っていると思った

長岡が、こんなに地震騒ぎになっているが、これは大変なことになると思い始めた
干上がってしまって苦しんでいた土木建設業者は神風が吹いたようなモノかもしれない
しかし、ようやく立ち上がり始めた機械工業関係、鉄工所などは東京との物流が切断されたり
何トンもする 機械設備が地震で動いてしまい元に戻すことも大変な状況だという
この地震をきっかけとして廃業に追い込まれる企業者も出始めている
大変なことが起きていると感じる
こうなったら、長岡の米百俵の精神を見習って
集まった義捐金を各戸に配布するなんてことは止めて
まとめて将来のためになる投資に回す方がよいのではと考える
というより、長岡市が米百俵の精神をここで発揮しなかったら、なんで米百俵の長岡といえようか、と考える
また、中小企業者が各社バラバラに復興を考えるのではなく
組合などが被災した中小企業者をまとめて共同経営できるような施設や場所を提供してゆくなど
いろいろなことを、この震災をきっかけとして検討する必要があると考え始めている
逆に言えば、この震災は千載一遇のチャンスなのかもしれない

とにかく、こんな劇的なことは無いのだから、「災い転じて福となす」

よそではできない最大チャンスが天から与えられたと考えるべきだ

久しぶりに揺れのこない場所に行ったら、少し落ち着いて考える気持ちの余裕ができたのか
いろいろなことを考え始めた
この震災は物理的にどうのというよりも、精神的にダメージが大きい
なぜならば、毎日大きな震度5クラスの地震がやってくる
せっかく直した家具がまた倒れ、なおしたらまた倒れ、結局、賽の河原状態で
今までの作業がすべてダメになる、むなしい、徒労となり、片づけようという意欲を確実に削いでしまう
段々バカらしくなって復興作業に対する意欲を確実に奪ってしまう地震の発生パターンだ
結局物理的ダメージより、精神的なダメージが大きな震災だ

10月30日
避難の時、避難所にみんなで寄り集まって隣組として励まし合って眠れない夜を過ごした方々が
今では皆さんあちこちに疎開され、留守宅になってしまっているお宅が多くなってきた
実際、こんな余震の続く中で壊れかけた建物の中で寝ることはできないし
さりとて、皆さん避難所生活は2泊がせいぜいで、早々に神奈川の娘の所とか新潟市の息子の所とかとちりぢりになっている
コミュニティーが崩れ始めている
残された、行く当てのない人々は、プライバシーも何もない、避難所に寝泊まりするしかない
寝たきり老人とそれを介護する、本当は自分も介護を受けなければならない何とか動ける老人のなんと多いことか
こんなに老人が多いのかと感じる

弱者が一番悲惨な環境に追い込まれる

10月31日

今日は日曜日だったせいだろうか、見物客という感じの人が目に付いた
医療関係の人だろうか、町内を回ってくれていた
相変わらずヘリが飛び回っている
ヘリの音がすると何となく落ち着かない被災地という感じがしてくる
両親の自宅あたりにくるとこの被災地というイメージで重い空気が流れているが
私のマンションの方にくると、被災地ってどこ、テレビで写っているところは、へぇー大変なんだね
と言う感じで他人事のように思えてくる
自分が車で移動してゆくだけで、自分の中でさえ空気が違ってくるのが不思議だ
だから、なるべく被災地の中にだけ居るより、自分の気持ちを切り替えるためにも
被災地から離れることが大切なんだと思えた

文明って電気なんだとふと思った

電気のつかないところにいるのと
電気のついている明るいところにいるのでは、全然世界が違って見える

11月1日

市営スキー場から戻って悠久町の自宅に向かう途中きれいな虹がすぐそこの畑から立ち上がっているのが見えた
道路はひび割れしているが自然の織りなす風情は素晴らしいモノだと、きれいな虹を見ながら感じていた
なにか自然に逆らって独善的に人間が自然を支配しているような錯覚を覚えて勝手気ままなことをやった結果が今度の地震
そんな風に自然の絶対的な力を見せつけられ、そのあとで繊細な自然が織りなす美、虹のきれいさ、山々のすがすがしさ
空気のおいしさ、木々の芸術的な紅葉の美しさ等々、自然の偉大さと美しさをまざまざと見せつけられた気がした

11月4日(木曜日)
しかし、久しぶりのガッツンは精神的な不安をしっかりと増長させてしまう
後かたづけすることがバカらしくなってしまう、どうせまた余震が来るのだから後かたづけなんかやっても無駄だと思ってしまう
人々の復興の意欲を削いでしまう実にタイミングの良い余震だ

地震から三日間はモノがなかったり、情報がなかったりと不安が先に立つ
しかし、三日経てばモノはドンドン豊富になり、ライフラインは自衛隊のおかげでドンドン良くなってくる
だけど精神的なモノはこれから段々壊れ始める、壊れるとなかなか元には戻らない、自衛隊では対応できない人の心の問題だ

今日の昼、最後まで出社できないで居た川口出身の男性がようやく長靴にジャージ姿の「防災ルック」で会社に現れた
道がやっと通じたので明日から出社しますとのこと、今日はスーツがないので長岡に買いに来ましたという
やっとスタッフが全員無事に戻ってきた、感謝感謝

今日、税理士会からFAXでやっと国が申告期限延期の地域指定を出したと通知があった
いろいろ不安な問題もあったが内容を確認したら地域指定で「長岡市」となっていたので長岡市全域のお客様が対象になった
昨日までは地域指定が出ても長岡市悠久町地域などと町名で指定されるのかと思ってしまっていた
このような不安をもたらさないためにも、月末までに地域指定を早く出して欲しいモノだとつくづく思った
いろいろ余計な不安をあおらないためにも、国は少しでも迅速な対応を願いたいと感じた

今回の災害を見ていると、ヘリコプターが勝負だと感じた
ヘリを持っていないと、そしてヘリポートを確保しておかないとどうにもならないと
いざというときに使えるヘリが長岡市には何機あるのだろうか、そしてヘリポートはどこにあるのかと

11月6日(土曜日)
初めて小千谷、川口と国道を走って感じたことは
川口は暗く、まだまだ被害のまっただ中、長岡で言えば三日目くらいまでの電気が通じなかった状況に近い
小千谷は電気は通じたが水道ガスはこれからというような長岡で言えば七日目くらいの状況に近い
やはり電気が町中に点くと文明開化ではないが、やっと文明社会に戻ってきたような気がする

ある社長さんが言っていた
普段余り要領の良くない社員で営業成績も悪く、少々お荷物だと思っていた社員が
今回の地震ではだれよりも早く会社に来て、だれに言われるでもなく会社の後かたづけを
コツコツとやってくれていた
それに引き替え、普段営業成績の良い社員はなんだかんだと言って
会社のことは後回しにしていた
会社にとってどういう人間が本当は大切なのか考えさせられた
こんなことを話してくれた社長さんが居た

11月8日(月曜日)
今日、昼前ガツンという地震が来た、震度5だという
何となく立ち直りかけて月曜日からさあ頑張ろうという出鼻を、まさに「ガツン」とくじいてくれた
うちの社員が言っていた、「毎週月曜になると地震が来るようですね」と
そんな感じがする、立ち直ろうとするとガツンと叩かれる、そんな感じがする
落ち着いてものを考えることができない
じっくり論文を読む気力さえ奪い取ってしまう

行政の動きを見ていて思う
最初は長岡市が大変だということで長岡に援助の手が集中した
次は小千谷市が大変だということで小千谷に援助が集まり始めている
そしてようやく川口町が大変だということで川口の対策が考えられ始めている
しかし、中越地震と命名されたのだから、中越地域全体で物事を考えるべきだと思っている

先の川口の社員が言うように、川口の学校を開始するからということで町外に避難していた子供達が
川口町に、被害の一番激しくて場所のない川口町にわざわざ戻ってきてテント生活を余儀なくされる
たったら、被害の少ない長岡市で川口の小中学校を受け入れてこちらに避難してもらう方がいいのではと考えても見た

しかし、山古志村程度の人数なら何とか長岡の坂之上小学校と南中学だけで受け入れられるが
川口の小中学校というと規模が大きくなって難しいのかもしれない

もう一つ気にしていることがある
長岡の施設や職員数は小千谷市や川口町より遙かに勝っているのだから、なんとか中越圏ということで
中越圏全体を考えた横の情報ネットワークで助け合うことを
この時だからこそ考えるべきではないかと思っている
そもそも、そういう仕事は県の仕事だというかもしれないが、県の対応まかせでなく
我々中越地域の中越地震なのだから我々が、長岡が積極的に行動をすべきではないかと考えている
現在の救援物資の状況や作業の進行手順情報やボランティアの状況や、その他色々な情報を
中越圏と言うことで情報を共有して流してゆくだけでも助かるのではないかと思っている
インターネットは一番強固な災害に強い情報インフラだから
中越行政データーベース共有掲示板等というものを一時的にでも立ち上げることは可能ではないかと思っている

地元のCATVが有効に機能している
長岡市の災害対策連絡会議が毎日朝晩開かれている
その模様を生中継で毎回流している
これが長岡の状況を把握するには一番わかりやすい情報源だ

11月9日(火曜日)
最初の3日間はモノがなくなり始めてどうしようと思ったが、道が通って電気が通じたらいくらでもモノは送られてきて
そうなると惨めな思いをして、配給品を分けてもらうより、自分で好きなモノを買ってきた方が気が楽だから
救援物資の配給品はいらないという人が増えてくる、ましてや「善意」でも「贅沢品」になれた人から見れば
全くモノがないなら仕方がないが、他にもっといいものが自分で手にはいるなら、良いものならもらうがそうでなければ「いらない」ということになる
そうなると救援物資が配りようが無くなってくる、まさか廃棄するわけにも行かず、対処に困ってくる
そんな現象が長岡では起こり始めているのではないかと私は思っている

11月11日(木曜日)
しかし、「無くなって初めてわかるありがたさ」ということだろうか田中角栄の御陰で我々新潟県は非常に便利になっていた

何とか早く新幹線が元のように全線開通してくれることが地元経済にとっての大切なライフラインなのだと感じた

まちの色々な明かりが何となく安心感をもたらしてくれる
やはり、文明は明かりにあるのだと実感した、町の灯が消えると言うことは文明が無くなることのような気がする

11月13日(土曜日)
みんなが地震の被災状況の話を聞いてくれた

地震の教訓として、懐中電灯が必須

値段の高い陶器や食器類は棚の高いところに置いて置くから壊れやすく

値段の安い食器やプラスチックのものは壊れずに残る

とにかく三日待てば何とかなるから心配しないこと

恐怖心が全ての混乱の元

大丈夫、三日待てば物資は元に戻るから買いあさることはない、避難所では水や食糧を確保してくれるから心配しないこと

情報がないことが恐怖心をあおるから情報をキチンと発信しておくこと

例えば、NTTの緊急用メッセージに登録しておく

インターネットは災害に強いから電気が通じたらメールで情報を流すこと

災害復旧は最初が電気、次に水、最後がガス

災害発生直後、水が出るようなら風呂桶に水をためること

車にガソリンを普段からなるべく満タンにしておくこと

ガソリンも三日経てば十分行き渡るからあまり心配しないこと

電話は公衆電話からが通じやすい

電話をかけるなら早朝が通じやすかった

11月14日(日曜日)
そうそう、思い出したが、地震になった後でみんながお店で買いあさったものリスト

1,おにぎり弁当、パン類

2.水

3.そして、携帯の充電池

とにかく携帯がないと不便と言うことで携帯の電池切れで充電池がすぐ無くなった

みんな不安が先に来るからな買いだめをしてしまう

11月15日(月曜日)
つい被災地だとモノがないのではないかと思われがちだが、それは最初の三日間

もうすでに3週間も経っているからモノは全然不自由していない

また、ボランティアに何かお手伝いを、という話もあるが

ボランティアにお願いできるのは単純作業だけで、「この部屋のモノを全て捨てて下さい」というようなことはお願いできても

あれをこうして、これをああして、等というとそう簡単にはいかなくなる

さらに、見ず知らずの人を家の中に入れることに不安が残る

近所の知り合いのお兄ちゃんに手伝ってもらうならまだしも、いくら善意でも見ず知らずの人となるとチョット躊躇してしまう

結局自分のことは自分でしなければということになる

11月16日(火曜日)
NHKやTBSと並んで市役所前には東海テレビが中継車を張り付けている
どうして東海テレビのようなローカル局が、と思ったが、ふと気が付いた
東海地震と騒がれている地域だから、次は自分たちではないかという恐怖から情報収集に精力的に対応しているのか
などと思って自分なりに納得して見ていた

11月19日
母親が言っていた、悠久山の自宅にいると近所の人が尋ねてきて色々話すという

そして皆さんが言うには「かしがったり壊れたりしている家に毎日いると気持ちが変になる」と言って嘆いていると

だから、自分は昼間は悠久町の自宅、夜は私のマンションと環境を替えることができているので気持ちが変にならなくて良かったと

たしかに壊れた家にいると、どうやって直すのだろうか、お金はどうしようか、冬は越せるのだろうか、大工はいつ来てくれるのだろうか

などなど、いろいろ思い悩み、段々気持ちが沈んでしまう、ましてや戸の良く閉まらない家にいると心も体も寒くなってくる

だれでも段々気持ちが暗くなっておかしくなってしまうという話はうなずけることだと思った

11月21日(日曜日)
大切なマイホームが壊され、土地もずたずたにされた状況で
一生に一度の買い物をして手に入れたマイホームがズタズタにされ
天災だから仕方がないとあきらめようにもあきらめきれず
将来に不安を抱えて途方に暮れる毎日を
何とか気持ちを取り戻して頑張ろうと思いながらも
何ともいえない不安か常に覆い被さってくる
そんな苦しさの中でどうすればいいのかとわめきたくなる

何とかしなければ、何とかしなければ、と思えば思うほど、よけいあせりが出てくる

あーーぁ 天を仰ぐだけ

11月22日(月曜日)
桃源郷

今思うと、地震の翌日はあちこちで停電していて信号は点いていなかったが

交通事故は目にしなかった

道路はあちこち陥没していたり、マンホール飛び出していたりでスピードなど出せる状況でなかった

道路の状況や周りなど見ながら、自分の目で確認しながら一歩ずつ歩くような感じで車を運転していた

たぶん時速2〜30キロで走っていたのだろうと思う

交差点に来ればお互い注意しながら譲り合いの精神で進んでいたし

交通量の多いバイパスでも信号が点いていなくてもそんなに混乱無く道路を譲り合っていた

全てがゆったりとした自分の体のリズムにあった、というより自然のリズムに合った動きをしていたような気がする

だから素直に驚き、素直に考え、素直に感じていたように思える

それからしばらくして、道路が段々直り、県外車が入り込んできたときから何か違う金属で切り裂くような

異文化が、土の文化に鉄の文化が入り込んで支配してしまったような、そんな感じを持ったのを記憶している

俺は忙しいのだ、時間までにこの物資を届けるのだ、どけどけ、何トロトロ走ってるんだ

というような雰囲気で鋭角に走ってくる

まるで刃物が走ってくるような恐怖を瞬間感じて、次の瞬間

飛び込んできた鉄の文化に負けまいと思い、自分もまた早いリズムに乗るように切り替えた瞬間、今までの夢のような

桃源郷のようなゆっくりと流れている世界が幻のごとく消えてしまった、そんな不思議な経験を思い出す

11月23日(火曜日)
それより、あの避難所では電気はどうしているのだろうか
みんながいろいろな電気製品を持っているだろうから電気はテーブルタップで何本も配線しているのだろうか
それともどこかコンセントの近くの人だけが電気製品を使っているのだろうか
電気の線を引いてきて使えるようになったときから、ようやく文明が開けるのではないだろうか
そして、明かりを自分でコントロールできることが、電気を自分で自由にコントロールできることが文明の進化なのではないか

神戸が震災のあと、商店街を灯りのページェントとしてきれいに飾り立てた灯りを使ってお客様をたくさん呼んで復興に一役買ったが
考えてみたら、やはり電気の灯りが文化の印だとしたら、あの灯りのページェントは理にかなっているイベントなのではないかと思った
長岡でも、夜の長い晩秋から冬にかけて、今回の地震の復興イベントとして灯りを使ったものを考えても良いのではないかと思った
しかし、神戸と同じではおもしろくない、長岡の独自性が出せると良いのだが、などと考えをめぐらせ始めた

11月25日(木曜日)
そもそも、今人が住んでいる場所は、昔地滑りがあったりして平地ができ住めるようになったわけで
日本に住んでいる限り地震とは共存するしかない
むしろ、我々は地震が作ってくれた自然の上で生活をさせてもらっていると理解すべきだ
そして、「せめてこたびはかくありけりと・・・」と小泉其明が書き残したように
我々も地震の様子やその後の復興の状況など、子孫への戒めとして書き留めておくべきだと

今日の講演を聴いて、私が睡眠時間を削ってまで毎日更新しているこの震災の状況報告も
必要なことなのだと意を強くして、もう少しやれるだけ続けてみようかと思った次第だ

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平成16年10月から11月分掲載

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