「悠久山の桜」と「高久」の話悠久山は、長岡の東面に位置する。長岡駅から約4q、桜の名所である。 私は「悠久」という言葉が好きだ。「悠久」という言葉には、たおやかなゆったりどっしりした目先のことより長い歴史を見据えた真実を見つめて今を生きて行く余裕のようなニュアンスが感じられる。 今、私の実家は悠久山の脇にある。町名は悠久町というところだ。 そこで、わたしは長女が生まれたとき、悠久という言葉のイメージを子供に託し「悠久」の「悠」の文字と、悠久山のような四季折々の美しさをもって欲しいと願い「季節」の「季」の文字をとって「悠季」(ゆうき)と名付けた。 次に、長男が生まれたとき、私の「裕」という文字は「ゆう」とも読む。衣へんに谷と書く。意味は「裕福」「余裕」などと使われるように、着るものに不自由しない。すなわち昔は着るものに不自由しないということは「裕福」で「余裕」がある人のことをいう。 さらに、我が家は江戸時代から長岡藩主牧野様に仕えた魚屋、長岡に二軒しかなかった魚屋で、後に料理屋として名をなしていたようだ。私から五、六代ほど先祖が江戸後期に「料理活用」なる料理本を出していたという。その現物が、今でも長岡の図書館に一冊だけ保存されていると聞く。その料理屋の屋号が「高久」である。我が家では代々長男は高野久太郎、二男は高野久二郎と名前が付いていたようだ。事実私の祖父も久二郎であった。私の祖母は料理屋の女将として活躍していた話をよく祖母から聞いている。我が家には現在も代々女将だけに伝えられる「秘薬」がある。それは鯛の骨がのどに刺さってとれないときにその「秘薬」を飲めば、すぐにとれるという代物である。我が家にたまにのどに骨が刺さってとれないという人が尋ねてきてその「秘薬」を飲ませたらとれたという光景を、私は何度か目にしている。料理屋は昭和初期に祖父が、「ゆきにゅう」(雪を冬の間に山にしてためて、夏に料理屋などに氷として販売することを目的とした貯蔵方法)を開業するためあっさりと廃業したと聞く。とにかく我が家の屋号は「高久」で、代々名前には「久」の文字が入ってきた。 長くなってしまったが、「久」の文字は我が家では大切な文字なのである。さらに、悠久山の「久」でもある。そこで、長男には私の名前の「裕」と高久の「久」を付けて、「裕久」(ひろひさ)と名付けた。この「裕久」も読み方を変えれば「ゆうきゅう」とも読める。 そんな、経緯で子供の名前を長女には「悠季」、長男には「裕久」と命名した。こんど三人目が生まれるようなら「悠久山」の「山」の字を使おうかと思ったが、とう使ってよいかよい案が思いつかないでいる。しかし、そんな悩みはどうも46歳のここまで来ると取り越し苦労になりそうである。 悠久山の桜から、話がおかしな方向に発展してしまったが、長岡にある「ナガハラスタジオ」という写真屋さんのご主人が撮られた「悠久山の桜二題」を掲載しておくので、見て欲しい。(1998年11月9日記) TMC日本語メイン・メニューへ 高野裕のコーナー・メニューへ
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