この物語は二人の人間が出あい、互いに探り合いながら、相手の喉元にナイフをつきつけていくような駆け引きをしていくという構成から、エドワード・オールビーの「動物園物語」を思わせるような関係の緊張を描いた舞台として、きわめて古典的な構造を持っている。が同時に、この物語が目の前にいる二人の男を描いているように見えて実はこの二人の関係というのがここにはいないやくざの妻と息子という「不在の中心」を持っているという点で、しっかりと長谷川孝治の演劇の刻印を残していることを忘れることはできないであろう。
だから、冒頭の携帯電話を持ってのやくざの長いモノローグに始まるこのドラマは教師の告白ともいえる最後のモノローグに終わる。その間には一見ダイアローグと思われる二人の丁々発止のやりとりがはさまれるが、物語の後半、怒鳴りあうように二人が同時に相手の存在を無視したかのように独白をぶつけあうクライマックス。このシーンは一見、会話劇に見えるこの芝居がそんなものではないことを明確に物語っている。
オールビーの「動物園物語」では古典的な不条理劇として、ひとりの男がもうひとりの男を殺して終わる。だが、この物語ではついにこの二人は殺す殺されるというような関係も含めて、いっさい直接の関係を持ちえずに終わるのである。それはこの二人の男の関係がすでに失われた「第3項」である妻「としこ」。その影ともいうべき息子「ひろし」との関係においてのみ存在し、ついに直接的な関係には至らないからである。つまり、二人の自閉した男の関係(というか関係のなさ)を描写しているという意味でこれは古典的な不条理劇のような雰囲気を装いながらもはっきりとディスコミュニケーションを基調とした90年代日本現代演劇となっているのだといえるのだと思う。
http://member.nifty.ne.jp/simokitazawa/new99-7.html 下北沢通信