あらためて演劇とは制約の多い表現形態だと思った。
あの手この手でこちらとしてはやりたいことがたくさん生まれ出てくるのだが、なんらかの障害により阻まれてしまうということがいろいろある。

なにか一つの表現しようと思ったことでも決して自由になることはなく、制約がかかることがある。
警察や消防署のご厄介になってしまったりと思いもよらぬところまで交渉しなければならないことがある。

ましてや野外劇である。あの天に空いた巨大な穴のあるポケットステージをどうやって有効に使うのかは、かなり試行錯誤したのだろう。演出家は、考えても考えても実現不可能な案の連続だったのではないか?

また、何かを表現しようとしてもそれが当然客に伝わるものでなければそれは表現するに値しない。
初めからやらない方がましなのである。舞台の上では俳優は必ずできることしかやってはいけないのだ。
またできて当たり前なのだ。日常の苦しみや、睡眠不足だとか声が枯れたとかは全く関係ない。
不器用な人間が役者をしたりすると、結局、最後は根性の世界になってしまう。

しかし、演劇の面白さは生でやることである。
ライブ感覚なのだ。生の感情をコントロールして表現することは、演劇ならではである。
そして、刹那的な瞬間の感覚が永遠の物に感じられることもあるだろう。
二度と会うことのできない世界観に出会える特別な場所でもある。
そんなロマンチストの集まりなのかもしれない。

参加者の思いもそれぞれ異なる。

だが一つ忘れてはいけないことがある。
これは市民演劇なのである。山の手事情社という劇団のためにやっているのではない。
演出家はプロだが、やる側はアマチュアの素人なのである。
(例え何年アマチュアでやっていたとしても、演劇だけで生活している人から見たらアマチュアはアマチュアである。)
決して参加している人が全員プロになりたいという訳ではない。
長岡市という都市に演劇を根付かせるためのプロジェクトの一環の中で行われていることだ。
この野外劇は、見るよりも参加してやることの方が面白いと思う。

日本には演劇学校がそれ程ある訳ではない。
また、演劇的教育などもほとんど受けたことがない。
だから、演劇やろうぜって集まった人間は、台本があって台本の正しい解釈はなんだろうと取り組むのかもしれない。
それはかつて受験によって正解はなんだと答えさせられた国語教育の悲しい敗北に違いない。
解釈はどう捕らえてもいいのだ。その人がどう感じるかが大事で、どういう表現にするのかはその人次第。
その人の色が出せなければならない。正解は自分で作る。

さらに演劇は集団芸術である。
一人でやるものではない。だから人間と人間のぶつかりあいが常にあるし、その中で共存して一つの方向性(もしくは二つや三つの対立性などのようなもの)が明確にできなければならない。
必然的に俳優とは、コミュニケーションの能力値が高くなければならない。

安田さんの演出は、こうしろ、ああしろというものではない。俳優はコマではない。
ある程度の指示はあるが、基本的には、俳優が考えてきたアイディアを元にしていたように思う。
素材を美味くいかした安田流一品料理。その辺はプロらしく短期間でうまくやっていたと思うが、実際は、理想からはかなり程遠いものになっていたように思う。

内情的には、様々な問題を抱えていたが、問題をどこまで本番までに解決することができるかだと思った。
プロではないから、完璧な舞台にはならない。ましてや演劇不毛の土地である。
しかしそんな人間がどこまで変われるのかという挑戦の日々だったような気がする。
入場料500円という値段は妥当だ。ポップサーカスに勝てたかどうかは定かではなかったが・・・。
ある意味では客を選ぶのだろうがすべての人に受け入れられる舞台を作るのもまた不可能だと思う。

都市を活性化させる意味でもコミュニティーの意味でも地元の演劇人を育てる意味でもとても蜜な体験が出来たことを幸福に思う。

外国の著名な映画俳優は、大抵、演劇学校を卒業している人が殆どである。
流石にシェイクスピアの地元のイギリスには、著名な演劇学校がたくさんあるのだ。
400年間の俳優の技術や方法論がぎっしり確立されてきた歴史がある。
そんな中で安田さん率いる山の手事情社は現代劇の方法論を日夜確立しようと試行錯誤しているようだ。
その挑戦にちょとだけ触れられたような気持ちもあった。
演劇の一つのあり方を知れたのはとても良かった。山の手メソッドは大変にタメになりました。