JTRI 租税法研究 知新会 会報

Billboard 発行人 菅納 敏恭

Talking on tap

日本語は難しい


英語は世界でも易しい言語ですが、日本語も発音の易しい、外国人に学びやすい言葉です。しかし唯一の欠点は、漢字の読み方がさまざまあること、どうして「関西大学」は ¶Ý»² で「関西学院大学」は ¶Ý¾² なんでしょうね。

「漢字は、中国が発明した文明的な(普遍的な)記号で、それをどのように音ずるかについては、漢字の発生当時から、中国内部でもまちまちであった。つまり漢字は正しく書かれていればいいだけで、それをどのような音声でよむかは、地方音にゆだねられていた。

日本における漢字は、組織的には、百済からきた。

百済は、長江の下流の呉とよばれる地方(いまの蘇州付近)や、おなじく長江流域の建業(いまの南京)あたりとつきあっていたために、漢字の音じ方も、呉音だった。従って、日本の奈良朝の漢字の音も、百済音 ⇔ 呉音なのである。

百済から暦や、その他の漢籍がもたらされた。このため、日本にあっては、一年十二ヶ月のかぞえ方は、呉音である。

『正月(漢音ならセイゲツ)』

『二月(漢音ならジゲツ)』

なのである。・・・百済が、新羅・唐の連合軍によって、660年、滅亡してその大半の人々が日本に来、大和盆地や近江平野の肥沃の地をあたえられるのだが、この百済の日本への移動も、呉音の普及ということでは、大きかったであろう。・・・

それより前、中国のほうでは、六朝の最後の王朝である陳がほろび、随という中国大陸ぜんたいを統べる統一国家ができ (589年)、つづいて唐帝国が樹立 (618年)された。随も唐も、首都を長安に置いた。長安に現出した文明は、七、八世紀においては比類ないものであった。

日本は、随のときには遺随使を送り、唐になって遺唐使を送った。

小野妹子が遺随使になるのは、聖徳太子の摂政時代のことである。呉音時代のことだから、摂政はセッセイと漢音で音ずることなく、当時もいまも呉音でセッショウという。まことに物もちのいいことである。

小野妹子の出発は、607年であった。このときの通訳官(当時・通事といった)が、鞍作福利 くらつくりのふくり である。かれは渡来系の名族のひとりで、中国語に明るかった。

もっとも音のほうはおそらく呉音だったであろう。長安に行ったとき、不自由したのではあるまいか。

この鞍作福利の祖父が、仏教の初期受容者として有名な司馬達等である。かれらは、経典を呉音で読んでいたはずで、その後の僧たちも呉音で読みつづけていた。

ところが、遺唐使に随行してゆく留学僧がこの点で大いに混乱し、

ー 日本でも、長安音(漢音)に切りかえるべきではないか。

ということが、新帰朝の人達のあいだでやかましくとなえられた。奈良朝時代のひとたちは、この長安音を正音(せいおん)とよんでいた。たとえば古く百済からつたわった呉音では、お寺を建てることを建立(こんりゅう)といったが、正音主義者は、

『そうじゃなくて、建立(けんりつ)だよ』

と、モダンぶったりしたはずである。

・・・しかし僧侶たちは最初に覚えた呉音をすてることに抵抗したため、こんにちにいたるまで、日本語に深刻な困難さを残した。つまり呉音・漢音併用(というより混在)の日本語がうまれ、外国人の日本語修得を厄介なものにしているのである。」

司馬遼太郎『耽羅紀行』朝日文庫 1990年

日本は、歴史上に見ると世界から文明文化を吸収してきたのですね。しかしどうも外に発光することをしないので、文化のブラックホールのようです。

明治以降、ドイツを中心に法制度を移入しましたが、戸籍法や不動産登記法は日本独自に発展した制度です。米国にはいわゆる戸籍がないので、クリントン大統領に異母兄が見つかった、なんてニュースがあるのです。

租税制度の中にも、年末調整制度に支えられた源泉徴収制度、路線価評価システム、日本式付加価値税などユニークなものがあるのですがね。世界的に返してゆくことは出来ないのでしょうか。

先の関西学院大学はキリスト教系で、建学にあたって僧侶の音である呉音を嫌ったようです。


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Last Updated: 6/29/96