JTRI 租税法研究 知新会 会報 Billboard 発行人 菅納 敏恭

〈Double standard〉

子どもは知らなくていい話


この冬、週末に事務所を早仕舞いして、スタッフとスキーに行きました。新幹線で新潟に向かい日本列島の背骨を抜けると、突然まわりは銀世界。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。・・」の世界です。

『雪国』はノーベル賞をとった川端康成の名作で学校の教科書にも使われたりしているそうです。しかし照らし合わせてみると、教科書の引用は、原本の一部が意図的に省略されていると教えてくれた人がいます。

主人公、島村が久しぶりに駒子を会いに行きます。

「『こいつがいちばんよく君を覚えていたよ。』と、人差し指だけ伸ばした左手の握りこぶしを、いきなり女の目の前に突きつけた。

『そう?』と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。

火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、

『これが覚えていてくれたの?』

『右じゃない、こっちだよ。』と女の手のひらの間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握りこぶしを出した。彼女はすました顔で、『ええ、わかってるわ。』

ふふと含み笑いしながら、島村の手を広げて、その上に顔を押しあてた。

『これが覚えていてくれたの?』」

かなりエロチックな話です。教科書から削除されるのも分かります。

生徒に意味を聞かれたら先生が困りますものね。校庭から窓越しに明るい日差しが降りそそぐ教室では、先生も「あぁ・・えぇ・・」となってしまいそうです。「子どもは知らなくていい話」です。

まぁ、小説全体の流れからは削除しても構わないようなよう部分です。しかし、従来評論家は論じないけど、なかなか重要なところですよ、という話もあります。主人公 島村 は特に左利きという記述はないのになぜ左手なのか、それは・・・

こういう経験に基づいた文学論は、いずれバーのとまり木でやりましょう。

セクシャルな関係は、種としての人類の継続に不可欠ですが、そのエネルギーは同時に社会にとって危険な因子です。そこでどこの社会でもいつの時代でも、世間が認め祝福する性的結合と、非難し排除する関係とがあります。

社会学、文化人類学で言う「二重基準」です。

正式な婚姻を見てみると、一流ホテル、会館での祝宴に両家の一族を招き、知人から祝辞をもらうことで、同族社会から、また両人が所属する社会から承認されていることが分かります。しかもその承認は晴れがましいものとして積極的な祝意をもって受け入れられています。お祭り騒ぎにしないと、実体が透けて見え下品になってしまうからでしょう。

社会の習俗ルールに反する性的関係は、非難され排除されます。たとえば不倫関係ですし、売春行為です。また生殖に結びつかない性行為も伝統的に社会から許されません。

どのような関係が社会的承認を得るかは、その時代、その社会で異なります。インドでは正規の結婚には持参金ダウディが必要ですし、アラブの世界では第二夫人、第三夫人も認められています。しかしどのような社会でも性をめぐる「二重基準」、社会の二枚舌の使い分けは存在しています。

日本でもつい最近まで、ひとが紹介していっしょになる結婚が正規なものでした。若いものが勝手に惚れ合って一緒になるなんて、非難されるべきことでした。婚姻後の情愛は別にして、結婚の成立条件として男女の恋愛が正面に出てきたのは、長い人類の歴史上ごく最近のことです。

恋愛結婚なんて賞賛されるようになったのは戦後、ところが最近では「愛」が性的関係の正当性の根拠にされるようにまでなってしまいました。十代の女の子が「愛」などを口にします。男女の不確かな恋愛感情があれば、正規の婚姻の前でもこの「愛」が一線を越える口実として是認されるようになってきました。

二重基準のもと、性的関係が社会制度の枠におさまっている以上、生のままで表に出てくることは、タブーになります。

そこで「子どもは知らなくっていい」「子どもは黙ってなさい」ということになるのです。

私たち知新会は、今年、家族についてさまざま考えます。

( 二枚舌の Kanno )


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Last Updated: 6/16/96