JTRI 租税法研究 知新会 会報

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発行人 菅納 敏恭


< love Spice >

料理は愛情だなんて


時々、「料理は愛情」といった暴論を聞きます。しかもけっこう世間に流布しています。今夜もたぶん全国各地で、結婚をしたら愛情を込めた料理を貴女の手で、などという雑誌の見出しなどを鵜呑みにした新妻が愛情を込めた夕餉の仕度で夫の帰りを待ちかまえているかもしれません。

 わたしがこんなに時間をかけて貴男のために作ったのに(婚姻届を出した夫以外、他の誰に食えっていうんだ)、 材料だって安くなかったのよ(そうだよ、ナマでも喰えるものをこんなにしちまって)、 本の通りに作ったのにちょっとうまくいかなかったみたい(これなら本をかじった方がましだな)、 どうして食べてくれないの(不味いからだよ)、 どうせお義母さんのようにはいかないわよ(母さんの料理が旨いというわけでじゃないが、こう押し付けがましくないなぁ)・・・・。

こうして結婚は忍耐を作り、日本の夫は、寡黙になって行きます。

経験からいっても、料理は技術だ、と断言できます。愛があっても技術がなくては料理は出来ません。愛情のかけらもなくても料理上手の作った料理は美味しいし、あふれる愛情を持っていても技術がなければどうしようもないものです。

医療技術のおぼつかない赤ひげ気取りの医者や、金八先生に憧れた熱情だけの新任教師などと同様、愛がすべてを解決すると思い込んでいる新妻も手に負えません。料理にとって愛情なんて、寿司桶のなかにあるプラスッチク製笹の葉のようなものです。

はっきり言います。愛情があってもなくても、不味いものは不味い !

味がしみていない煮物、しみすぎている煮物、しゃきっとしていないサラダ、煮立たせてしまった味噌汁、べとっとした天ぷら、だしの香りがしないお吸物、ゆですぎたマカロニ、粉っぽいホワイトソース、塩の利きすぎた漬け物、米粒がベトっとした炒飯、揚げすぎて肉がかたくなったトンカツ、ふわっとしていないオムレツ、・・・(こんな例をすぐに挙げられる僕の人生は何だったんでしょう¡¼­Ý)¡

料理は、食べ物に対する関心と作る過程での気遣いです。下手なのは愛情がないのではなく、性格が、がさつ なのです。

料理が愛情であるなんていう誤解の元は、女が家族の料理に当たる、この一見有史以来のルールと、結婚生活の基礎に愛情があるという幻想が結びついた点にあるようです。

夫婦と未成熟の子を構成員とした近代家族は、資本主義生産体制とともに成立します。男は企業で生産活動に従事するので、家庭には消費機能のみが残ります。そして女が家庭に残るので、女性配偶者の重要な役割のひとつが、家族の料理を作ることになります。

また資本主義と同時代の精神である近代理性は、婚姻の基盤を個人の愛情に求めます。そこで愛情を存在基盤とした妻の料理は、愛情の証になってしまったのです。

料理なんて共同生活の必要として、得意な方がすれば良いのです。近代家族も崩壊しつつあるといわれる現在、熟年離婚もあります。これからは男も人生の自立のために最低の料理技術は身につけておいた方が良いでしょうかねぇ、ご同輩。

知新会は今年家族を考えます。

(妻の料理が美味しい KANNO 記)


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Last Updated: 5/25/96