JTRI 租税法研究 知新会 会報 Billboard

発行人 菅納 敏恭

〈The most creative job〉

世界で一番クリエイティブな仕事とは


『(その仕事に)関係するもの

味覚、ファッション、装飾、リクリエーション、

教育、交通、心理学、

ロマンス、料理、デザイン、

文学、医薬、工芸、芸術、園芸、

経済学、

政府、近所付き合い、

小児医学、老人医学、

接遇、管理、

購買、ダイレクトメール、

法律、会計、宗教、燃料、

そして経営。

誰であろうとこれら全部を やってのけられる人は

きっと特別な人に 違いない。

その通り。

彼女の名はホームメーカー。』

「アメリカの心」学生社 昭和62年

アメリカ・コネチカット州にあるユナイテッド・テクノロジー社は、1979年7月から、毎月1回ウオール・ストリート・ジャーナルに企業広告を出しています。同社会長 Harry Grey 氏の意見、主張を伝えるメッセージです。

上に引用したのは、その意見広告のうち1980年7月に掲載されたものです。こんな文章が新聞一面全部を使って掲載されるなんてなかなか良いでしょう ?

このメッセージには、13,756通の手紙が寄せられる反響があったそうです。ネブラスカ州アメリカ未来主婦連盟からは、主婦の立場を支持しているばかりでなく、ホームメーカー(家事担当者)という性別のない言葉を使ったことも取り上げて感謝を寄せたということです。

「主婦」という社会的地位が登場してきたのは、職場と家庭が分離した今世紀のことです。

米国で郊外に芝生に囲まれた住宅をかまえ都心に通勤する生活様式が普及するのは、1930年代です。

日本でも小津安二郎監督が映画で描く郊外小市民生活が登場するのは、昭和の初年でしょう。「空には今日もアドバルーン。今ごろ会社でお忙しいと思うたに ♪♪」と歌う女性は、ターミナル駅からでる私鉄沿線の小住宅(関西で文化住宅といわれるもの)に暮らしているのでしょう。

ホワイトカラーを社会的に登場させた社会構造の変化が、一方で主婦といわれる女性を登場させたのでしょう。その当時、郊外のホワイトカラー層は時代の最先端をいくライフスタイルを実践していました。主婦は主婦としてアイデンティテイを持っていました。家庭の食卓にカレーライス、コロッケを登場させ、ミシンを踏んで子供の洋服の仕立て直しをし、冬に向かっては雑誌を見て編み物もするようになりました。

しかし、総力戦である現代世界戦争は婦人の労働力を外に出すことになり、戦後も婦人が職業を持つ習慣が生まれました。経済成長による所得分布の平均化は「花嫁修行中」という主婦予備軍の存在を次第に消し去ってゆきました。戦争中に生まれた僕の長姉は、1960年代半ばに女子大を卒業したはずですが、当時はまだ勤めるなんて親が許さず、しばらく家にいて結婚してゆきました。

今年は不況で女子学生の就職状況が極めて悪いことが話題になっています。マスコミで問題になるほど大卒女子は就業することが当然と考えられています。こうした現在社会では「主婦の友」「家庭画報」「主婦と生活」などという読者が主婦であることを全面に押し出した雑誌が消えて行きました。専業主婦は足場を失いつつあります。

「主婦」は社会のなかでのアイデンティテイが薄れてきたように感じられ、自信が揺らいできているのではないでしょうか。

こうした今日の社会意識のもとで、上記の主婦の役割を認める意見広告は、大きな反響を得たのでしょう。

社会の中で、夫も妻も変わります。

今年、知新会は、家族を考えます。

( House Husband, Kanno )


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Last Updated: 5/19/96