< Talking on tap >

  華族の誇りと学者の誇り


 お金を失ってもいい、また稼ぎ出すこともできる。愛を失ってもいい、また見いだすことができる。名誉をなくしてもいい。しかしどのような逆境にあっても誇りだけは失うな。自分への誇りをなくしては、何もできない。・・・と言った西洋の古哲が居るそうです。私の恩師のひとりが若き日、学窓を離れるときにそのまた恩師に言われた言葉という、又聞きの至言です。

 たしかに自分に気負う何ほどのものがなければ、何事もできないでしょう。しかし自分のどこに誇りを見いだすか、難しいものがあります。経験、キャリアでしょうか、知識でしょうか、人柄、家族、資格でしょうか。

 旧帝大を出たが、戦後の混乱期のめぐり合わせが悪かったのか、結局不遇だったちょっと孤高の初老の人といったタイプが良く居ました。

 江戸時代から続く数十代目ということを拠り所にし、結局先祖伝来の資産に徒食している人もいます。また、もう人生も半ばなのに司法試験を受け続け、受かるまで地方の旧家に帰るに帰れない人も知っています。


 「ちかごろのはやり言葉に、毛並みがいいとか悪いとかいうのがある。イヤな言葉の一つであるが、門地とか家柄とかいうものが、どうして人間の価値判断の標準になるのだろうか。どんなに毛並みのいいことを誇っている人間でも、その先祖にさかのぼってみれば、なにをしていたか知れたものではない。それについては面白い話がある。

 以前に、京都大学に喜田貞吉博士という歴史の先生がいた。ときどき奇説を出すので有名であったが、その先生のところへ、H侯爵家からの依頼があった。それは、H侯爵家の先祖は夜盗として有名であったが、侯爵家ではなんとかして先祖の汚名をそそぎたく、その人物は決して夜盗ではなかった、ということを喜田博士に考証してもらいたいというのであった。そこで博士は、いろいろと史実を調べてみたが、夜盗の事実をどうしても否定することができない。結局、H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった、しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせますと返事をした。だが、H侯爵家では、それでは困るといって、この学術調査(?)は沙汰やみになったそうである。」

河盛 好蔵『人とつき合う法』 昭和42年 新潮文庫


租税法研究 知新会 会報より 発行人 菅野敏恭


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Last Updated: 5/14/96